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「恥ずかしながら、10年も前の彼氏のことが忘れられなくて。結婚はおろか、彼氏なんかも作れなくて……」
ほろ苦いコーヒーを一度胃に流し込む。マスターは優しい目で私を見守っていた。
「いいえ、決して恥ずかしいことではありません。誰かを一途に愛する、忘れられない人がいる。それって素晴らしいことだと思います。そういう人に出会えることってなかなかありませんから」
マスターの言葉がぐっと来た。私は泣きそうになるのを悟って、「すみません、ちょっとお手洗いに」と言って席を立った。トイレに駆け込むと、鏡を見ながら涙を流す。
今まで両親にもそんな言葉をかけられたことがなかった。確かに、颯人が亡くなった時は慰めてくれたけど、それからもう10年。私は30歳でいつまでも過去の恋愛を引きずっている。親は私に早く結婚してほしいし、孫の顔も見たいと言ってくる。
颯人君のことは残念だけど、もう忘れなさい。小春が今生きているのは颯人君のお陰なんだから、颯人君の為にも前に進まなきゃ。
正論だよ。けれど、違うんだ。そんな言葉を、私は求めていない。
トイレから戻ると、マスターが一瞬私の顔を見て驚いた。でもすぐに優しい微笑みを浮かべる。しわくちゃの顔が安心感をもたらした。
「すみません、話の途中に」
「いいえ、大丈夫ですよ」
詮索することもなく、声をかけるわけでもなく、マスターはただ優しくそう言った。私は少し冷めてしまったほろ苦いコーヒーを飲む。冷めてても美味しいのがここのコーヒーの特徴だ。
私は「美味しい」と呟いて、マスターに笑いかけた。マスターが丁寧に礼を述べる。
「私もね、何十年も前に妻を亡くしまして。亡き妻の意思を引き継いで、脱サラして喫茶店を開いたんです」
「そうだったんですね、知りませんでした」
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