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 最後の夏期講習を終えて、私たちは一番に校門を後にしようとしていた。次に来る時はもう8月も終わって、夏も過ぎていると思うとやっぱり名残惜しい気がしてくる。  ふいに足を止めて振り返ると、散々見てきたはずの校舎が何だかとても大きなものに見えた。ついセンチメンタルな歌詞の曲を思いだしてしまうのは、背景の青のせいでもあるかもしれない。  「どこ見てるの、ぼうっとして」  先を歩いていた志穂が戻ってくる。私が付いてきていないことに気付いたんだろう。近づいて顔を覗き込まれても私は、真っすぐ目を離せずにいた。  「なんか、もう終わるんだって思って」  「何言ってんの、夏休みはこれからだよ」  「そうだけど、これが最後の夏になるんだよ。高校生として過ごす最後の」  そう言うと志穂は私の心を汲んだのか、「あぁ」と小さく声を漏らした。  「始まれば終わっちゃうからね」  付け足された言葉で、私の感情は心の中ではっきりと形になる。そうだ、始まれば終わってしまうんだ。夏休みが始まると、夏の終わりへのカウントダウンも同時に始まる。あとは減っていくだけ。それってなんだか、ほんとに、どうしようもない。  「寂しいんだ?」  聞かれて、ちょっと空いて、それから黙って頷く。  風は私たちに向かって強く吹いて、校門まで続く道の木々の葉が煽られて、まるで早く帰ればいいのにと言われているようだ。  帰りのホームルームが終わってもほとんどは返る素振りを見せず、皆明日に迫る長期休みへ、集まっては浮かれ調子で話し始めた。来週の花火大会とか、一応は受験生なので勉強会がどうとか、それぞれ高校最後の夏休みの予定について話すことがあるようだった。  そんな中、私たち二人だけ、数人の友達と挨拶を交わす程度で教室から出てきた。それは、通常通りとは言えない空気に呑まれたくないという気持ちの表れかもしれなかった。あのまま教室にいれば、今日が夏休み前最後の日であることや、これから最後の夏が始まってしまうことを嫌でも意識してしまう。  だけど結局は、校舎に背を向けて、何食わぬ顔で帰るなんてことはできなくて、こうして後ろ髪を引っ張られる思いで振り返ってしまうから不思議だ。『最後』という言葉がちょっと恨めしい。  「別に、青春なんて言葉が似合うような特別な思い出なんてないのにね。どうして寂しくなるんだろ」  そうぽつりと呟く。  「特別じゃない思い出のせいかもね」  志穂は考える時間もなく、さらっと答えた。  その言葉は通りすぎるどころか私の心にふわりと留まって、数秒かけてゆっくりと消化されていく。  「特別じゃない思い出か…」  「うん、分かる?」  分かるかも、と曖昧な返事をする。  曖昧にこそ言ってみたものの、私の頭には鮮明な情景が浮かんでいた。  それは、例えばいつかの誰もいない教室。  窓の外からは西日が射して、机を照らす。秒針の刻む音。遠くの方で聞こえる話し声。しんとした教室は、委員会で遅くなった私以外のクラスメートを送り出した後で、午前とは違う空気に包まれている。妙だったけど、不思議と居心地が良かった。  それから、体育の後の古典の授業。疲れと、『源氏物語』を語る白髪の教師の穏やかな口調に負けて、机に突っ伏していく生徒の姿。ふとベランダの柵に止まった名の知らぬ鳥と、私以外にそれを見ているクラスメート。  昼休みになれば、律義に遠くの方から自分の椅子を運んでくる男子と、近くの自分の椅子を貸そうかふと考える女子。突然教室に入ってきた英語の教師に驚き身構える生徒と、それに反して大した連絡もせず、帰りがてら弁当を覗き込んで「いいな」と一言感想を言う教師。  午後の授業もやっぱり寝る生徒達と、彼らが本当に見えているのかそれともただ諦めているのか、恐ろしく普通に授業を進める数学教師。  帰りのホームルームで指名された掃除当番から上がる面倒くさそうな声と、それを聞きながらちらりと時計を見て、委員会までの時間を確認する私。  これらは、ただ過ぎていく日々の中で繰り返されたものたち。特別でもなければ、思い出なんてものでもないかもしれない。いわば、ただの記憶。その中で、私が主人公として思い出されるものはきっと数えるほどしかない。  それでも志穂が言うように、そんな特別じゃない日々が、私を何だか名残惜しい気持ちにさせているのだと確かに思う。  つまりは今、私の心をキュッと苦しくさせるのは、よく想像されるような青春の時なんかじゃなく、何気ない日々がまた1つ終わりに近づく事実。  今までこんなこと考えたこともなかったけれど、もしかしたら私は、ちゃんと高校生としての時間が好きだったのかもしれない。  「もう卒業みたいな表情。浸るにはまだ早いんじゃない?」  からかうように小さく笑う志穂。私も笑みを向ける。  風は相変わらずこちらに向かって吹いて、顔に当たり頬をかすめれば私たちを追い越していく。  「将来にも、届けられたらいいのにね」  一呼吸置いて、澄んだ声で志穂は言う。  「届けるって、何を」  聞くと、志穂は突然自分の両の親指と人差し指でLの形を作り、まるでフォトフレームのように繋げて空に掲げた。  小さな四角の中には、手前に校舎と背景の空が収まり、きっとこれが本当に写真になれば、綺麗だろうなと思う。  「この、人生で二度と来ない夏を迎える私たちを、思い出せるようにこのまま将来に届けたい」  その言葉で、掲げられた指のフレームは空と校舎ではなく、私たち二人を収めているのだと気付く。角度や大きさ的に、綺麗に二人が入っているかは分からないけど、志穂の横顔は少し恥ずかし気に見えた。  「クサいかな」と、小さく笑う志穂。私は首を振りつつ、フレームの向こうから覗いた私たちを想像した。  「将来の私たちに今の私たちの姿が届いたとして、嬉しいのかな」  「嬉しくはないかもね。もしかしたら、将来は結構荒んでて、高校時代を羨ましく感じちゃうかも」  「それって酷だね」  「でも、思い出せないよりはずっと良いよ」  志穂の指がパッと空で離れる。  降ろされた腕に釣られて、私の視線も下に下がった。  ふと遠くから聞こえてくるのは、生徒たちの話し声。もうホームルームも、教室での夏休み前最後の会話も終えた生徒たちが出てきたのだろう。  「私たちもそろそろ行かないと」  志穂に言われて私は小さく頷く。  「やっぱり本当は、ここでのなんてことない日々全部を、そのまま届けられたらいいのにって、思ってるんでしょう」  前を振り向きつつ志穂は言う。  「…うん」  生徒の集団が徐々に近づいてくるのが分かる。楽しそうに笑ったり、ふざけ合ったりする声。浸るには本当に、早すぎると、心の中で自分自身に言い聞かせながら、志穂の背を追うため振り返る。  するとさっきまでの風は、今度は私の背後から強く吹いた。風に髪が煽られ、頼んでもいないのに背を押されるから、一歩一歩進んで行かなければいけない。急かされてる。そう感じた。  志穂の横に並ぶと、私たちはいつもと同じ道を変わらない歩幅で歩き始めた。けれどその後ろから風も吹き続ける。夏の陽にじんわり湧き出る汗に隠れて、込み上げてきたものが消えそうもなかった。  
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