長岡英哉、15歳。

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 そのあとは、シャトルランがおこなわれた。    シャトルランとは、合図に合わせて20m間隔で平行に引かれたライン間を行き来するテストだ。  合図の音は1分ごとに速くなり、音についていけなくなって2回連続でラインに到達できなくなった時点で終わり。何回行き来できたかで、持久力を測定する。    運動神経がよさそうな浅尾は、このテストでもいい数字を出すのかと思っていたんだけど……。 「なにやってんだ浅尾ー!」  なんと浅尾は、途中からなぜか耳を塞いで走っていた。そのせいで、記録はたったの40回。音についていけなくなったようには、見えなかったんだけど……。  浅尾が、イヤイヤする子供のように何度も首を横に振りながら戻ってきた。   「ど、どうしたの?」 「電子音……無理……保健室……」  そのまま、おぼつかない足取りで体育館を出ようとする。それに気がついた先生が、また声を上げた。 「こらー! 浅尾、どこへ行くんだ!」 「あ、あの。浅尾君は、体調が悪いから保健室へ行くそうです!」 「そうか! それなら長岡、付き添ってやれ!」 「は、はい」  俺は慌てて浅尾のあとを追いかけた。  保健室には先生がいなかったけれど、浅尾は構わず奥のベッドへ勝手に潜り込む。 「……電子音が無理って、シャトルランの合図のやつ?」  ベッド横の椅子に腰かけながら訊ねると、浅尾は俺に背中を向けたまま頷いた。 「ピアノが好きで」 「ん? うん」 「……母親がピアニストで」  そういえば、浅尾瑛士さんは有名ピアニストと結婚されたんだっけ。  あ、もしかして。ピアノの音は好きだけど、さっきのような電子音は嫌いってことなのかな。 「そっか。ああいう音は苦手なんだね」 「チャイムも無理。だからいままで、ほぼ学校に行ってねぇ」 「もしかして、この学校を選んだのって、チャイムが鳴らないから?」 「それもある」  うちの学校は、自分の行動を自分で律する習慣を身につけてほしいという考えから、ノーチャイム制を導入している。中学校までとは違う環境に最初は苦労したけれど、ようやく少しずつ慣れてきたところだ。    まさかそれが志望理由だなんて……いや、もちろん、それだけではないのだろうけど。 「あら、ごめんなさいね。少しだけ席を外していたの。どうかした?」  保健の先生が戻ってきた。 「あの、日本画クラス1年の浅尾君なんですけど、少し頭が痛いそうです」 「そうなの。鎮痛剤、飲む?」 「寝たら治る。長岡、昼休みになったら起こしに来て」  相変わらず背を向けたまま、浅尾が言う。昼休みになったらって……まだ、2時間目の途中なのに。ガッツリと寝るつもりだ。  だけど「起こしに来て」と頼まれたのが嬉しくて、俺は軽い足取りで体育館へと戻った。    浅尾のことをいろいろ知ることができたこの日から、俺たちは少しずつ「友達」と呼べる関係になっていったと思う。うちの家へ遊びに……というか、おすそ分けの米を貰いに来てくれたときは、母も大喜びだった。  彼の「ボソボソ早口」は次第になりを潜めたけれど、その代わり無口に拍車がかかった。でも俺に対しては、視線を合わせて会話してくれる。  そして浅尾が描く絵は本当に純粋で、眺めているだけで涙がこみ上げてくるほど美しい。俺はずっと刺激を受けているし、浅尾も俺の絵を見るのが好きだと言ってくれた。 「おはよう、浅尾」 「……はよ……」  今日もまた、浅尾の寝ぼけた返事を聞いて1日がはじまる。  中学時代の友達は誰ひとりいない環境だったけれど、浅尾のおかげで、充実した高校生活になりそうな予感がしていた。 ***おわり***
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