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長岡英哉、15歳。
「長岡。ハンカチ、落としてる」
放課後、学校の廊下を歩いていると、浅尾に後ろから呼び止められた。
そのとき俺が驚いた理由は、ふたつある。
ひとつは、浅尾が自分から話しかけてきたこと。もうひとつは、俺の名前を覚えていたことだ。
「あ、ありがとう、浅尾君」
差し出されたハンカチを受け取ると、浅尾は無表情で俺の顔を数秒見つめたあと、背を向けた。
それが最初のできごと。高校入学から、1週間ほど経った日のことだった。
本人は一度も言及していないが、彼があの浅尾瑛士の息子だということは、クラス全員が知っている。浅尾瑛士は、日本画家を志す人間であれば誰もが憧れる大家だからだ。
ただ、その息子は非常にとっつきにくいと、周りのクラスメイトたちが口をそろえて言う。なにせ無口、無表情、無愛想。なんというか、若者らしい溌溂とした空気が、微塵も感じられない。
クラスでひとりひとり自己紹介をしたときも、浅尾は自分の名前しか言わなかった。そして他人の自己紹介は、ほとんど興味がなさそうにしていた印象しかない。
だから俺の顔と名前を覚えているなんて、まったく思っていなかったんだ。
そして浅尾に初めて話しかけられた数日後、クラスで席替えがあった。
入学式の日から五十音順で座っていたものを、視力や背の高さなどを考慮した席順にするとのこと。
長身で視力がいい浅尾は最後列窓際の席で、メガネをかけていてそこそこ遠くまで見える俺は、その隣になった。
「よろしくね、浅尾君」
挨拶をすると、またじっと顔を見つめられた。これが、興味のある人間に対する浅尾の癖なのだと知ったのは、もっとずっとあとのことだ。
「……君」
「え?」
「いらねぇ」
なにを言っているんだろう?
一瞬そう思ったけれど、すぐにその意味に気がつく。
「あ、呼び捨てでいい……ってこと?」
俺の言葉に、浅尾は小さく頷いたように見えた。
なんだ。とっつきにくいなんてこと、ないじゃないか。
確かに無愛想だとは思うけれど、まったく嫌ではない。なんと言うか、冷たい雰囲気が一切感じられなかった。そして青みがかった灰色の瞳がとても綺麗で、その奥には、誰にも触れられない無垢なものがあるように思ったんだ。
「じ、じゃあ……浅尾、よろしく」
今度ははっきりと、浅尾が頷く。
このときから、俺は浅尾に親近感と好意を抱くようになった。
「英哉、学校はどう? 通学とか、慣れた?」
その日の夕食時に、母から訊ねられた。
税理士をしている父は仕事が忙しい時期なので、まだ帰宅していない。
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