ベランダの訪問者

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ベランダの訪問者

古びたアパートの一角、少しさびれたベランダには、一面に広がる緑とともに、一匹の蜘蛛が暮らしていた。蜘蛛は長い間このベランダに巣を張り、何匹もの小さな虫たちを捕えて生きてきた。ベランダには植物が生い茂り、花が咲き乱れていたため、そこに訪れる虫たちは絶えなかった。 その日も、彼は静かに巣の片隅で待ち伏せていた。張り詰めた糸が、かすかな振動を感じ取るのを待ちながら。そして、ついにその時が訪れた。蜘蛛の巣に、軽やかな羽音を立てながら、一匹の蝶が飛び込んできた。 その蝶は美しい模様を持つ羽を持ち、自由に飛び回ることを愛していた。だが、その自由な飛行が、今日は仇となってしまった。蝶は蜘蛛の巣に絡みつき、動けなくなってしまったのだ。 「おやおや、これは素晴らしい。ずいぶんと大きな獲物がかかったものだね」蜘蛛はその姿を見て、思わず嬉しさがこみ上げた。久しぶりの大物だ。 「お願い、助けてくれ……僕はただ花を見に来ただけなんだ。こんなところで死にたくない!」蝶は必死に羽をばたつかせ、逃げ出そうとするが、蜘蛛の巣はそんなに甘くはなかった。巣の糸は細かな羽根にしっかりと絡みつき、蝶の動きを徐々に奪っていく。 「ふふふ、そう簡単に逃げられると思ったのかい?」彼は冷たく笑った。「ここは私の領域だ。飛び込んできたお前が悪いんだよ」 蝶はもう一度羽ばたきを試みたが、無駄だった。絶望の中、蝶は涙を浮かべた。「お願い……僕はただ、美しい花に惹かれて来ただけなんだ。命だけは助けてくれないか……」 蜘蛛はその言葉に一瞬考え込んだ。蝶の生きるための本能と、蝶の哀れな姿に対するわずかな同情心が交錯する。だが、長い年月の間に蜘蛛は感情を捨ててきた。蜘蛛にとって、生きることは他者を食らうことに他ならなかった。 「ここで私が慈悲をかけたところで、誰が私を養うんだ?お前が花を愛するように、私は食事を必要とする。それが自然の摂理だよ」蜘蛛は冷たく言い放った。 「でも、お願いだ……せめて、最後に花の香りを嗅がせてくれ……」蝶の声はかすれ、涙がこぼれ落ちた。ベランダにはいくつかの花が風に揺れていた。蝶はその花々を愛し、その美しさに魅了されて生きてきたのだ。最後の瞬間に、せめてその香りを感じたいと願うのは、蝶の唯一の望みだった。 蜘蛛はその望みを聞いて、再び考え込んだ。「最後の願いか……」蜘蛛は重い腰を上げ、蝶のそばまで這っていった。そして、自らの足で蝶の絡みついた糸を少しだけ緩め、 「さあ、花に近づけてあげよう。でも、その後は……」蜘蛛は言葉を途切らせ、蝶をそっと花の近くに移動させた。 蝶は必死に羽ばたこうとしたが、すでに力は残っていなかった。しかし、風に乗って運ばれてくる花の香りが、蝶の鼻先に届いた。それは、蝶がこれまでに感じたことのないほどに美しく、甘美な香りだった。蝶はその香りに包まれながら、静かに目を閉じる。 「ありがとう……これで、心残りなく……眠れる……」 蝶の声がかすれ、そして静かに消えていった。蜘蛛はその様子をじっと見つめ、静かにため息をつき、「これでいいんだ。これが私たちの運命だ……」 その後、蜘蛛は蝶の体に近づき、静かに食事を始める。蜘蛛にとって、これはただの日常の一部に過ぎなかった。しかし、その夜、蜘蛛はいつもとは違う夢を見た。 夢の中で、蜘蛛は広大な花畑に立っている。そこには美しい蝶たちが自由に飛び回り、花の間を楽しげに舞っている。そして、その中にあの蝶の姿もある。蝶は笑顔で蜘蛛に振り返り、優しく微笑んでいた。 「ありがとう、蜘蛛。君のおかげで、最後に美しいものを見ることができた」 目が覚めた時、蜘蛛は不思議な感覚に包まれていた。それは、満たされたような、そして同時に、少しの寂しさを感じるような感覚だった。蜘蛛は静かにベランダの隅に戻り、再び巣を張る準備を始める。 外では風が吹き、花の香りがベランダに運ばれている。その香りは、あの蝶の最後の願いを思い出させるかのように、蜘蛛の心に深く刻まれていた。 そして、次の朝もまた、蜘蛛は静かに巣に戻り、新たな一日を迎えるのだ。ベランダには依然として、花が咲き乱れ、蝶たちが訪れる。その光景の中で、蜘蛛は自分の役割を再確認し、静かにその運命を受け入れた。 だが、蜘蛛の心の中には、ほんのわずかながら、あの蝶の微笑みが残り続けていた。
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