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僕は今、本屋にいる。スピリチュアル系の本棚の前で本を選別していた。
僕が探している本は、『引き寄せの法則』とか、『潜在意識』がタイトルに入っているものだった。僕は頑張らなくても人生が上手く行く方法を探していた。
今までの僕の人生は、自分なりには頑張っているのだけど、全然上手く行かずにいた。仕事はバイトだし、彼女もいないし、お金もない、そんな人生を送っている。頑張れば頑張るほど空回りしている。まるで回し車の中でハムスターが必死に走っているが、全然、前には進んでいない状態のようなものだった。
僕は本棚から適当な本を取り出し、ページをペラペラめくる。本の内容を軽く読んで、自分の興味がある本を数冊、見繕う。
『宇宙銀行からお金を引き出す』、『お金のブロックの外し方』。そんな文字が、僕の目に飛び込んでくる。やっぱり、お金が欲しい。しかも、簡単に手にすることが出来るなら尚更だ。
僕は、より良い本を選別するため、本棚からまた新たな一冊を抜き出した。しかし、手にした本は奇妙な本だった。まず、タイトルが変だった。本の表紙には『奇跡を起こす漢字ドリル』と書かれていた。タイトルから本の内容を想像することは難しい。僕はペラペラと本をめくった。
その本は、小学生のときにやった漢字ドリルと同じような形式だった。まず上に、見本の漢字があり、見本の漢字には注意点が書かれている。ここはハネ、とか、ここはハライ、とか。そして、その下には見本を見ながら、自分で書いてみる欄がある。
唯一、小学生のときやっていた漢字ドリルとの違いが、ここに書かれている漢字は、ポジティブな漢字だけで構成されていた。『愛』とか、『夢』とか、『希望』とか。
僕は、なぜこの漢字ドリルが奇跡を起こすのか?その理由が理解できなかった。
僕は、この本を元にあった本棚の隙間に戻した。戻した後も、違う本を何冊か立ち読みしながら選別していた。
僕は立ち読みをしながら、ふっとある日のことを思い出した。それは僕が小学生のころだった。小学生3年のときの担任は、毎日、漢字の小テストを僕たち生徒にさせた。僕は勉強がまるで出来ない生徒だったため、テストはいつもバツばかりだった。間違えた漢字は、その日の宿題になり、よく繰り返し漢字を書いていた。だから僕は漢字が苦手だったし、嫌いだった。
僕は、立ち読みをしながら、昔の記憶を懐かしんだ。
僕は三冊の本を選別した。その本を持ってレジに行こうとしたが、どうしてもさっきの『奇跡を起こす漢字ドリル』という本が気になった。レジに向かって歩いていたのを止め、反転し先ほどのスピリチュアル系の本棚に戻った。そして『奇跡を起こす漢字ドリル』を手に取った。まあ、効果は見込める気はしないが買ってみよう。金額もお手頃だったので。
その日、部屋に戻り、僕は早速、一冊の本を読みだした。その本には、想像したことは現実になる、という内容だった。いくつかの事例もあり、突然、望むだけの金額を貰えたり、前から欲しいと思っていた物が手に入ったり、理想の相手と出会えたり、そんな内容だった。
僕の身にも起きないかな?という期待をしながら読み進めた。
一冊まるまる読み終えた時には、もう寝る時間が来ていた。明日はファーストフード店のバイトがある。僕は寝る準備をし、布団に入った。だが、どうしても気になっていることがあって、再び起き上がった。気になったことは『奇跡を起こす漢字ドリル』だった。
僕は漢字ドリルと筆記道具を寝床に持って来て、寝ながら漢字ドリルを広げた。漢字ドリルの最初の文字は『愛』だった。僕は愛という字をお手本を見ながら何度も書いた。
僕は漢字テストは嫌いだったが、担任の先生は好きだった。若い女の先生で、怒ることもなく明るい先生だった。その先生は、僕たち生徒のことをよく褒めてくれた。それは結果が良かったから褒めるのではなくて、その人の頑張りを見て褒めてくれた。
僕はその先生に褒められようと、次第に漢字の予習をするようになった。漢字ドリルを使って何度も何度も漢字を書いた。段々と点数も取れるようになり、ある日、僕は漢字テストで満点を取った。その時の先生は、驚きに表情で僕を褒めてくれた。
その先生は、僕が小学生3年と4年生の担任だった。その時の漢字テストは、最初は低い点数だったが、途中からは満点を取ることが多かった。
僕の学生時代は、いつも落ちこぼれの代表格だった。だから勉強は常に嫌いだった。でも唯一勉強した時期は、この二年間くらいだ。
僕は漢字ドリルを書きながら、当時の先生の表情を思い出していた。あの驚いた表情を。僕の心は、温かな気持ちになっていった。
僕は漢字ドリルを閉じ、電気を消し、その温かな気持ちのまま眠りについた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
僕は真っ白い空間にいた。地面も空も白く、その境界線さえも曖昧な世界だった。
その白い空間に、小さな木材の机があり、向かい合うように椅子も二脚用意されていた。一方の椅子は空いているが、もう一方の椅子には一人の老人が腰掛けていた。その老人は男性で、淡い白色の漢服を着ていて、白い髪の毛と、白い長い髭を蓄えていた。小さな木材の机と椅子が
僕はその老人に話し掛けた。「あなたはいったい誰ですか?」と。
「私は仙人。漢字の叡智を網羅した仙人。皆からは漢字仙人と呼ばれている」。老人はそう言うと、僕に椅子に座るよう促した。僕は言われるままに椅子に座った。
「ところで、ここはどこですか?」と僕は訊ねた。
「ここは夢の中だよ」と漢字仙人は答えた。
「夢の中?」。僕はもう一度辺りをぐるりと見渡した。「ということは、今、僕は夢を見ているということですか?」
「そういうことだね」
「あなたは、どうして僕の夢にいるのですか?」
「それは、君が呼んだからだよ」
「えっ、僕が?」。僕は驚いた。僕は漢字仙人なんて聞いたこともないし、初めて見る顔だった。どうして知らない人を僕が呼ぶことが出来るのか不思議に感じていた。
「君は、潜在意識について知りたいのだろ?私はそれを教えてあげるためにここに来た」と漢字仙人は答えた。「ちなみに、ここは君の夢だけど、君だけのものではない。みんなで共有できる空間なんだよ。私が勝手にお邪魔している失礼な奴というわけではないからね」と付け加えた。
共有できる空間?僕は漢字仙人の言っていることを正確に理解することはできなかった。でもそれよりも、潜在意識のほうに興味が行っていた。
「僕でも潜在意識を使えるようになれるんですか?」と僕は訊ねた。
「それはもちろん」と漢字仙人は答え、愉快に声に出して笑った。
僕は喜んだ。これからは思い通りの人生を歩めるのだから。
「潜在意識を扱う上で大切なことがある」と漢字仙人は言った。
そして漢字仙人は机の上にある筆を執り、半紙に字を書き始めた。力強く筆を半紙に押し付けたかと思うと、滑らかに筆を走らせた。そして出来上がった字は『心』であった。
書き上がった『心』という字を、漢字仙人は僕のほうに向けてくれた。達筆な字だった。
「潜在意識を扱う上で、良い気分でなければいけない、と聞いたことないかい?」と漢字仙人は訊ねた。
僕は本で読んでいた。「良いイメージと良い感情が引き寄せには大切だと、確か本に書いてありました」と僕は答えた。
「そうなんだよ。感情が大切なんだ」と大いに頷く。「感情、気分・・・・・・」。漢字仙人は少し間を空け「感じが大切なんだよ」と言った。
僕は「はあ」と腑抜けた返事をした。
「感じが大切なんだよ。漢字だけにね」。漢字仙人は僕に分かりやすいように強調しながら言った。しかもドヤ顔だった。
どうやら、この人はこのダジャレが言いたかっただけだった。僕は「面白いですね」と素っ気なくお世辞を言った。
「まあ、冗談はここまでにしておこう」と漢字仙人は言い、真面目な顔に戻った。僕は心の中で、冗談だったのかい、とツッコミを入れていた。
「じゃあ、悪い感情が出てきたら君はどうする?日常の中で、苛立つこととかムカつくこと、嫉妬することなんて多々あるだろう。こんな気分になったときはどうすればいいと思う」と仙人が訊いてきた。
「良い感情になるように気分を切り替えますかね」
「意志の力で感情を変えるなんて、なかなか難しくないかい?」
「でも笑顔になれば、気分も楽しくなるって言いますよ」
「まあ、そういう場合もある。でも、悪い感情が出たときに笑顔で感情を変えるのってゲキムズじゃない?難易度ウルトラEだね。開き直ってから笑顔を作れば気分も変わるだろうけど、笑顔で気分を変えようとするだけじゃ、余計に辛くなるよ。そこで頑張るくらいなら、フラットな感情のときから笑顔を作っておけって、私なら思うけど」
「じゃあ、どうしろと」。私はムッとしながら訊き返した。
「そのときはもう、受け入れるしかないね」と漢字仙人は言った。そして、また筆を執り、字を書き始めた。漢字仙人は『愛』という字を書き、その字を僕に見せた。
漢字仙人は話を続けた。「苛立ちだろうが嫉妬だろうが、出てきてしまった感情は否定せずに受け入れよう。そりゃあ苛立ってもしかたないよね、嫉妬もするよね、そう呟きながら一旦は受け入れよう。『心』を『受ける』から『愛』」
僕は漢字仙人が書いた『愛』という字を眺める。真ん中に心が入っている。
漢字仙人は言った。
「潜在意識を扱う上で大切なことは、どんな感情も否定せずに受け入れることだ。それには愛が必要。自分を愛することが大切なんだ。これは潜在意識を扱うための基礎であり究極でもある」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
僕は次の朝、目を覚ました。やはり夢だった。夢なのに記憶がはっきりと残っていた。
僕はバイトに出掛けた。態度の悪い客はいつもいる。今日も何人かいた。命令口調で態度が大きい奴や店員を人として接しない奴。もちろん僕の気分は最悪になる。だけど今日はいつもとは違った。イライラする自分を、もう一人の自分が認めていた。
バイトが終わり、家に帰り、いつものようにスマホでゲームをしたり動画を見た。あっという間に時間が過ぎ、寝る時間が来た。僕は漢字ドリルだけ少しだけした。また漢字仙人の夢が見れるかな?と期待しながら。昨日買った本は、一冊読んだだけで残りの二冊は開かずにいた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
また僕は白い空間にいた。もうすでに椅子に座り、向かいには漢字仙人がいた。
「どんな心の状態でも一旦は受け入れなくちゃいけない、と前回は言ったね」と漢字仙人は話しを始めた。
どうやら前回の続きらしい。「はい。今日一日、心を受け止めてみました」と僕は答えた。
「それは、良いことだ」
僕は褒められ嬉しかった。
「じゃあ次の課題を用意しよう」
「はい。お願いします」
「君は普段から心に意識を向けているかい?」
「普段から?」
「そう、普段から自分の心を向き合いなさい」。漢字仙人は筆を執り、『息』という字を書いた。「瞑想をやりなさい。一日の始まりに、息に意識を向けなさい。『息』を整えることは、『自ら』の『心』を整えることなんですよ」
漢字仙人は僕に『息』という字を差し出した。そしてまた筆で字を書いた。『悟り』と。漢字仙人は話しを続けた。「仙人というのは、息を使って思考を止め、悟りを開いくんです。『息は自らの心』。『悟りは吾の心』。類似しているでしょ。まあ、思考を止めるには長い年月を必要しましたが」
一度、漢字仙人と一緒に瞑想をした。漢字仙人の言葉に合わせ、ゆっくり息を吸い、ゆっくり息を吐いた。自分なりに息に意識を向けているつもりなんだけど、勝手に思考が動き出す。バイトのことや、これからの将来のことを考えてしまう。
瞑想後に漢字仙人に感想を言ってみた。「どうしても思考が働くんですが?」と。
漢字仙人は、「思考は勝手に働くものなんです。最初は自分で思考が働いていると理解するだけでいい。無理やり止めようとしないでください」と教えてくれた。
「しかし」と漢字仙人は渋い顔をする。「現代人は思考を働かせすぎている。文明社会だから仕方ない部分も多いが、あまりにも働きすぎている」とため息を吐いた。
確かに、現代人は働きすぎだ。それに比べ僕は、バイトなのでそれほど長時間働いていない。今日一日を振り返ってみても、バイトから帰ってからは暇だったのでダラダラとしていた。漢字仙人が言っていることは、一般的な現代人の話で、これは僕に当てはまってないと思っていた。
「ちゃんと私の話を聞いてるかい?」と漢字仙人は訊ねてきた。
「えっ、僕に言ってるのですか?」
「君以外に誰かいるかい?」
「でも僕、忙しいほど働いていませんよ」
「働いてるというのは、仕事をしてる、してないを言っているわけではない。思考を働かせすぎてないか?と言いたい」
「そう言われても、僕、そんなに日頃から頭も使うようなことしてないし」と僕は答えた。現に、暇なときはゲームしたり動画を見ているだけなのだから。
「分かりました。じゃあ、これならどうですか?」と漢字仙人は言い、指をパチンと鳴らした。
すると突然に風景が変わった。真っ白だった空間が自然の中に変わった。樹木の間からは木漏れ日がこぼれ、僕のすぐそばには透き通った水の小川が流れていた。
「どこですか、ここは?」。僕は驚き訊ねた。
「ここは夢の中。だから想像すれば何でも出来るのさ」と漢字仙人は軽やかに言った。
「しばらく、ここにいる」と言われた。僕はすることも無いので地べたに寝転がった。なんとなく懐かしさを感じる場所だった。
寝転がると、街では感じられない土と草の香りが時折鼻腔をくすぐった。次第に川のせせらぎ、葉っぱが重なり合う音が聞こえてきた。そして目を閉じると、木漏れ日の温かさと、風が肌を撫でる感触を得た。
既視感の正体が分かった。僕の古い記憶が蘇る。
子供の頃に行った祖父祖母の家だ。この風景は、親が里帰りしたときに行った田舎の自然と同じだった。
僕は起き上がり、漢字仙人を見た。
僕は何も言わなかったが、漢字仙人は察して答えた。「そう、ここは君の記憶から見つけた場所だよ」
僕は既視感の正体が分かりスッキリした気持ちになった。もう一度、子供の頃の思い出に懐かしもうと寝転がろうとしたとき、漢字仙人は言った。「じゃあ、次の場所に行こう」。漢字仙人は指をパチンと鳴らす。
景色があっという間に変わる。
しかし、今度の景色は目が痛い。光線がフラッシュのように何度も光り、機械音が騒音のように鳴る。僕は耳を塞ぎ、一旦、目を瞑る。そして徐々に徐々に目を開け、光の刺激に慣れさした。
目の前には無数の画面があった。よく見ると、それは僕がよくするパズルゲームやよく見るアニメやユーチュブ動画だ。しかも懐かしいどころか、今日、見たものばかりだった。
僕はこめかみが痛くなり、漢字仙人に「止めてください」と頼んだ。漢字仙人は指をパチンと鳴らし、また真っ白な空間に戻った。
「思考を休めるには、どちらの環境にいればいいかは、言うまでもないよね」と漢字仙人が言う。
僕は一応頷いた。「でも、いっぺんに動画を何個も見てるわけじゃいし」と反発する。
「しかし、思考というのは、入って来た情報に対して処理しようと勝手に働く。しかも、現代の情報量は百年前と比べて圧倒的に多い。今は、昔の一年分の情報量が一日で手に入ると言われている。思考はその処理に四六時中追いやられている。もちろん無意識化でも」
漢字仙人は筆を執り、半紙に漢字を書いた。『忙しい』と。その半紙を僕の目の前に突き付けた。そして漢字仙人は話し始めた。「現代人は思考を働かせすぎて、心を疎かにしすぎている。『忙しい』とは、『心』を『亡くす』ということだよ」
漢字仙人の言っていることは分かる。でも僕には言い分もある。
「言いたいことは分かりますが、でも、自然の中に行くなんて、そうそう出来ませんよ」
「それは私にも分かっている。でも自然の中に行かなくても、何もしないことはやれるはず」
「何もしないことをやる?」
「まあ、時間がゆったりと流れる生活を取り入れなさい。私の場合は書道をしたり読書をしたりする時間だ。君だって、ここに来た初日は、本を読んで、漢字ドリルをして寝ただろ。そういうほうが潜在意識にも望ましいってことだ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
朝になり、僕は目を覚ます。夢の中のことは、はっきりと覚えている。
起きて、顔を洗い、朝食を食べたのち、僕は瞑想を行った。夢の中で漢字仙人としたように、ゆっくりと呼吸をした。思考は止まりはしないが、まずは思考が働いたと気づくだけで十分だ。
この日は、バイトもないし、予定もなかった。今日一日、何もしないをやろうと思った。こんな課題は楽勝だと高を括っていた。しかし、何もしないということが、意外にも難しい。スマホを触っていないと、なんだか落ち着かない。結局、僕は30分ほどで何もしないを諦め、スマホをイジってしまった。
しばらく僕は漢字仙人の夢を見ることはなかった。ひょっとしたら、課題をクリアしないと、次に進めないのかもしれない。
僕は、全くスマホを触らないというのは無理だから、少しずつでもスマホを触らない時間を増やしていった。スマホを触らない間、気を紛らわすために、漢字仙人と同じように読書と書道(筆ペンだけど)をするようになった。
僕は学生時代、友達も少なく、しかもスマホなんてなく、だから学校ではよく本を読んでいた。スマホが普及してから、読書をする習慣はなくなってしまったが、改めて読書をするのもいいものだと感じた。
書道に関しては、小学校の書道の時間以来だと思う。字なんて綺麗に書かなくてもいいと思っていたし、この時代に筆で書くことなんてないのだから、無駄な授業だと思っていた。でも改めてやってみると、これまた良かった。筆先に集中しているときは、瞑想しているときと同じ感覚になり、思考が止まる時があった。あの奇跡を起こす漢字ドリルは書き終わってしまったので、その中にあったポジティブな漢字を選んで筆ペンで書くようにした。
読書と筆ペンで、一時間以上スマホを触らなくても気にならなくなったとき、僕はあの夢を見た。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
漢字仙人は、いきなり筆を執り、『運』と書いた。
「君は運が良いほうか?」と漢字仙人が訊いた。
「仕事はバイトだし、彼女もいないし、お金もない。そんな僕が運が良いわけない。だから、こうして潜在意識を知ろうとしてるんじゃないですか」
「じゃあ、私が運が良くなる方法を教えてあげよう」
「本当ですか?」
漢字仙人は、『運』と書いた半紙を再び自分のほうに手繰り寄せ、そこに『動』の字を付け足し、『運動』という文字を完成させた。
漢字仙人は言う。「運は動より生じる、という言葉がある。運を良くするには運動をしなさい」
「えー」。拒否したい気持ちが反射的に口から出た。僕は運動が苦手だし、小学生のときから運動音痴で馬鹿にされていた。
漢字仙人は僕を宥めるように話を続ける。「別にスポーツをしろと言ってるわけではない。体を動かそうね、と言いたいだけだよ」
「実際、運なんて運動と関係ないでしょ。運なんて生まれもって、すでに決まってますよ」
「生まれもって決まっている、というのは否定はしない」
「でしょ」。僕は自分で言いながら気分が萎えた。生まれもって何もない人間にとっては目を背けたい現実だから。
「でも、自分でコントロールできる部分もある。持っている運を最大限に生かそうとしないことこそ、運が悪くなる要因だぞ」と漢字仙人は言った。
僕は一応、漢字仙人の話を聞くことにした。
「これは、そもそも動物に備わったメカニズムであるのだけど、動物は危険に直面したときに闘争・逃走ホルモンが分泌される。まさに野生環境の中で敵に出くわした場合、戦うか逃げるかをしないと食べられてしまうからね。これは、人間の体でも同じことが起こる。日常で嫌なことが起きると、闘争・逃走ホルモンが分泌される。まあ、カッとなる、ということだ。だが、人間社会では、それを我慢しなければならない。身に覚えはないかい?」
確かに、バイト先で嫌な客の対応も我慢しなければいけない。僕は黙ったまま頷く。
「我慢していると、早く逃げるか戦うかしなさいと脳内で指示され、嫌な出来事を何度も何度も思い出してしまう。ムカムカしたことがあると、いつまで経っても、そのことで頭がいっぱいになったことがあるだろ?」
僕はまた頷いた.
「嫌なことが起きた瞬間は動いたりできないかもしれないが、一日が終えるまでには、体を動かし汗をかくと良い。意外にスッキリするだろう。嫌なことはその日のうちに忘れてしまうことだ」
僕は運動するかと観念してると、漢字仙人は「もう一つ」と言い、また筆を執り、『食』という字を書いた。
僕は心の中でゲッと思った。運動同様、食も不摂生だった。なにせファーストフード店でバイトしているので、そこで食事を済ませてしまうことが多々あるからだ。
漢字仙人は、「『食』とは、『人』が『良くなる』」と言い、『食』と書かれた半紙を僕に差し出した。
漢字仙人の言いたいことは、大体予想は付く。自分の体は食べたもので出来ているので気を付けろ、とでも言いたいのだろう。こんな言葉は耳にタコである。僕は煩わしく感じ、「潜在意識には関係には関係ないでしょ」と反抗する。
「健全な精神は健全な肉体に宿る」。僕の言い分を、漢字仙人はピシャリと撥ね退けた。「形もなくコロコロと変わる心を整えるのは難しい。それなら形のある肉体を整えたほうが効果的なんです」
僕は反論できず黙りこくった。
「食で大事なのは栄養素。まず三大栄養素。糖質、脂質、たんぱく質。体を作ったり、動かすために必要な栄養素です。バランスよく取って下さい。それにビタミンとミネラルを加えて五大栄養素と言います。体調を良好に保ってくれます。そして、六大栄養素の食物繊維。腸内環境を整えてくれます。君は脳腸相関という言葉を知っていますか?」
「なんですか?」
「脳と腸は密接な関係で、お互いに影響を与えているのです。脳がストレスを感じると、腹痛や下痢を起こすし、腸内環境が悪ければ、うつ病にやりやすい、と言われてるんです。どうですか?腸って、超重要でしょ」
漢字仙人はキメ顔をして言った。どうやらダジャレが決まったと思っているみたいだが、僕は愛想笑い一つもせず、「そうですね」と返した。
「それと、もう一つ」。漢字仙人は声を張り上げて言った。
「まだ、あるんですか?」
「はい。食べることも重要なんですが、食べないことも重要です」
「えっ、食べないこと?どういうことですか?」
「私たち仙人は、修行の一環として断食をする。断食の効果はいろいろありますが、私が気に入っているのは空腹の感覚がはっきりするところだ」
僕は疑問を口にする。「断食なんてしなくても、空腹になんてなりますよ」とバカにするみたいに半笑いで言った。
「たぶん君の空腹は、まやかし空腹だよ」
「まやかしの空腹?」
「胃の中が空になる前に、まず脳のほうが空腹感を覚えるんだ。そうしないと、食料がすぐに手に入らなければ餓死してしまう恐れがあるからね。だから胃に内容物があっても、空腹を感じる。野生の中では、これは大切な機能だ。だけど現代の社会ではすぐに食料が手に入る。本当の意味で空腹になる前に、現代人は食事をしてしまう」
「それの何がいけないんですか?だって、お腹が空くと集中できなくなるじゃないですか?」
「そんなことはない。脳が空腹を感じた瞬間は、一旦は集中力を欠くかもしれないが、それを過ぎると空腹感は消え集中力が増す。逆に胃に内容物が入ると、消化するために内臓に血流がもっていかれて眠くなり、集中力を欠く」
まあ、言われてみれば、そういう経験、僕にもある。
「きちんと空腹の感覚を理解できていれば、食べすぎることも無いし、頭も冴える。それにデトックス効果もある」
「デトックス?」
「宿便が出る。宿便が出て、しばらく内容物が入らなければ、腸を休めることもできる。食物繊維のところでも言ったけど、腸は超重要」
「はい。はい」。また、しょうもないギャグを言っていると僕は呆れた。
漢字仙人は、『運動』と書かれた半紙を指差した。「運を良くするには運動。それと、運を良くするには、うんだよ、うん。うんちのうん」
また漢字仙人は、キメ顔になっていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
夢の中で漢字仙人は、運動、食事、睡眠を最後に説いていた。断食までしなくてもいいが、体調が良くなるような生活習慣を自分で見つけるようにと言った。体調が悪いときに、心を良い状態にするのは至難の業ということだ。
僕は少しずつ生活習慣を改善した。外出した際は、エスカレーターなどは使わず、階段を選んだ。最寄り駅から住まいに戻るときは、少しだけ遠回りして歩いて帰った。運動が苦手な僕も、これくらいは実行した。
食事に関してはファーストフード店で済ますこともあるけど、自炊もたまにはするし、サプリメントも活用しだした。それに今では間食を取らないように努力している。
睡眠に関しては、寝る前は本を読み、スマホに触らなくなった。おかげで熟睡できているように感じる。
生活習慣を変えると、体型が変化したように感じる。体重計がないので、体重は分からないが、少し痩せてきたのではないかと思う。毎日、風呂上りに、鏡の前で自分の体をチェックするようになった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「あれ?痩せたんじゃない?」と漢字仙人は僕を見て言った。
「はい、たぶん」
「一か月ほどで前なのに、見るからに変わったよ」と漢字仙人は褒めてくれた。
実は、見た目が変わったのが嬉しくなり、僕はダイエットを始めた。段々と運動量を増やし、食事も自炊を増やした。体重計も買い、毎日、体重を計った。元々、肥満体型だったから、生活習慣を整えただけで、最初は体重が楽に落ちて行った。しかし最近は、体重の減少は停滞ぎみだった。
漢字仙人は筆を執って、半紙に『変化』と書いた。
「アメリカの多くの大富豪たちに、成功の要因は?とアンケートしたことがあった。その回答の上位三つが、倒産、失恋、病気だったそうだ。もう変わらざるを得なかったんだと思う」
漢字仙人は、また筆を執り、『大変』と書いた。
「『大変』なときは、『大きく変わる』ときと言うことだ」
漢字仙人は僕を励ましてくれているんだ、と察知した。痩せて変化している僕に、大変だけど変化してるぞ、と言いたいのだろう。
「でも、これって、一部の人間にしか当てはまらくないと思わない?大変な事なんて、乗り越えられないって、普通は」
漢字仙人の言葉が、僕の思っていたのとは違う内容だったので驚いた。でも、お前も変われないよ、と言われてるみたいで不愉快だった。「みんな、努力すれば変われますよ」と僕は反論する。
「結果が出ているときは頑張れるよ。でも努力しても結果が出ないとき頑張れる?」
なんか僕の今の状況を見透かされているようだった。ダイエットが停滞気味でやる気が失せているところだった。でも僕は言い返す。自分が挫折する人間だと思われたくなかった。「目標があれば頑張れますよ」と僕は言った。
「目標があれば、やる気が起きるの?それは意志が強いね。ところで今まで、どんな目標を達成したか教えてくれるかい?」
僕は何も言えなくなった。なぜなら僕は何も成し遂げたことが無い。そもそも頑張らなくても人生を好転させる方法を知りたくて、スピリチュアルにハマったのだから。
何も言えない僕を察してか、漢字仙人は僕を励ましてくれる。
「目標が達成できないのは君の意志が弱いせいではないよ。そもそも私も三日坊主になるときがあるし、私はやる気というのは感情だと思ってる。やる気というのは、意思や思考ではコントロールできないとものと思っている」
「やる気も感情?」
「やる気というのは、やる気になるときもあれば、やる気がないときもある。それは気分みたいなもの。しかし、そうは言っても、やる気が起きるのを待ってるだけでは、何も成し遂げれない」
漢字仙人は筆を執り、『歩』という字を書いた。
漢字仙人は『歩』という字を指差しながら、「やる気が起きなくても、とりあえず一歩だけ足を出すのだ」と言った。そして続けて話す。「君にはこういう経験はないかい?ほんの少しのつもりで掃除したら、段々と真剣になり本格的に大掃除になってしまうことが」
僕にも経験があった。だから頷いた。
漢字仙人は言う。「やる気というのは、目の前のことをやるから、やる気が起こるんだ。一歩目が重要なんだ。もし君が、運動をしようと思っていたのなら、意思の力で頑張ろうとするのではなく、一歩だけ足を出してごらん。いや、靴だけ履いてごらん。いや、ジャージに着替えてごらん。いや、とりあえず体を起こしてごらん。そういう最初の行動こそが重要なんだ」
漢字仙人の話は続いた。「『歩』という字は『止まることが少ない』。集中して大掃除していても、一旦休憩が入ると、途端に面倒くさくならないか?やる気というのは、動いてるから起きて、止まると無くなるものなんだ。だから歩き始めたら、一歩ずつ足を出すんだ。右足を出したら、左足。左を出したら右。次の一歩だけを考えるんだ。ゆっくりでいい。焦らなくていい」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
漢字仙人はあの後も教えてくれた。気分を上げるために特別なことはしなくていいのだと。ただ日常の行為を丁寧にしていけば気分は上がる。漢字仙人は、僕に、まずは靴を揃えるように指示した。『靴』は、『革める』、『化ける』。自分を変える道具だそうだ。
生活習慣も整えて、日常を丁寧にしても気分が上がらないときは、そのときは無理をするな。無理やりやる気を出そうとするな。そんなときはゆっくり休め、とアドバイスを貰った。
そして僕のダイエットのほうは、今は現状維持が続いてる。でも焦っていないし。無理もしてない。
実は、ユーチュブでダイエットに関する知識を調べた。体重の停滞は悪い事ではないらしい。それは、僕たちの体はホメオスタシスというものが働いているらしい。ホメオスタシスというのは変化を嫌い、常に同じ状態を保とうとするシステムなんだそうだ。だからダイエットするときは、ホメオスタシスが働かないくらい緩やかに痩せるほうがいいのだとか。ホメオスタシスを無視して強引に痩せても、振り戻しがくるという。いわゆるリバウンドだ。
ダイエットも、ゆっくり焦らず一歩ずつだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「心の状態が安定してきたね」と漢字仙人は言った。「そろそろ潜在意識の話をしよう」
やっとだ。ここまで長かった、と僕は思った。
「まず左脳の潜在意識と右脳の潜在意識のどちらから話をしようか?」
「左脳と右脳で違うんですか?」
「まあね。大まかな仕組みで言うと、左脳は自分を喜ばすため、右脳はみんなを喜ばすため」
僕はそれを聞いて、「左脳の潜在意識からお願いします」と答えた。もちろん、お金が欲しいからだ。
「左脳の潜在意識は、思考は現実する、とか、引き寄せの法則と言われている」
「僕にもできますか?」
「まあ、焦らないでくれ。順に話していく」と漢字仙人は言う。「ところで君は、もし何もない見知らぬ土地に放り出されたら、どう思う?」と唐突に訊いてきた。
「それは不安になります」
「じゃあ、高級レストランに入れられたら?」
「それも不安になりますね」と答えた後、「なんですか、この質問?」と訊いた。
「左脳の潜在意識というのは、自分の居心地の良い環境にいるために働くんだ。だから、不安を感じると、より強く働くんだ」
僕は漢字仙人の言っている意味が理解できなかった。「どういうことですか?もう少し詳しく教えてくださいよ」
「じゃあ例えば、君は、いままでの自分の人生、何点だと思う?」
僕はしばらく考えて、「30点くらいですかね」と答えた。
「左脳の潜在意識というのは、その30点くらいの範囲に留めようと働くんだよ。それが君にとって居心地の良い環境なんだ。だから0点を取ると焦って頑張るし、60点取れば実力以上だと卑下してしまう。そして、無意識的に平均で30点を取ろうとするんだよ」
僕はある言葉を思い出した。「ホメオスタシス」と叫んだ。
「そう、思考のホメオスタシスが左脳の潜在意識なんだ」
「じゃあ、僕には引き寄せとかは無理なんですか?」
「もう使ってるんだよ。詳しく言えば、使う使わないじゃなくて、ずっと働いているんだ。30点だと自分が思っているから、30点の現象を引き寄せている」
「じゃあ、どうすればいいんですか?これ以上、人生良くならないじゃないですか?」
「自己採点の点数を上げればいい。自己採点が上がった分だけ、引き寄せるものも変わってくる」
「どうやって自己採点を上げるんですか?」
「目標の点数は?」
「えっ、急に言われても」と僕は悩んでいた。低い目標を答えればいいのか?高い目標を答えればいいのか分からなかった。
「君が居心地良い点数のMaxは?」と漢字仙人は助け舟を出してくれた。
「60点くらいですかね」
「じゃあ、目標点数を70点だと設定しよう」
「えー、なんか、ソワソワするんですけど」
「そのソワソワが良い。実は、心配の胸騒ぎも、期待の胸の高鳴りも、体の反応は同じなんだ。ただ脳が心配だと考えているのか、期待だと考えているかの違いなんだ。ソワソワしている不安を、無理やり抑え込もうとしても無駄なんだ。もう体は反応してしまっているから。だったら、あとは脳をどっちだと思わせるかだよ」
漢字仙人は筆を執り、字を書いた。『信じる』
「そして、あとは自分は70点だと信じきることだ」と言った。
僕は、自信がなかった。70点なんて思えない。
漢字仙人は僕の表情を察し、「『信じる』とは、『人』に『言葉』。言葉の力を使えばいい」
「言葉の力?」
「言葉には力がある。自分は70点だ、と口にすることで、そのうち自分が70点だと信じれるだろう。ただ、気を付けなければいけないこともある。言葉は刃物に似ている。使い方によっては便利でもあるが、使い方を間違うと怪我をする」
「どういうことですか?」
「心と言葉が一致していればいいのだが、心と言葉が反発してると自分を傷つける。さっき話したように、少しの反発で心がソワソワしている程度なら、心配しているのではなく期待してると思い込めばいい。しかし、それでも反発するなら、言葉を疑問形にしてみるといい。自分は70点かも?っと。そうすることで反発も弱まるだろう」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
話が長くなったので、右脳の潜在意識については、また明日、ということになった。
漢字仙人は、自己評価の思い込みは潜在意識に深く染みついている、と言った。その思い込みを変えるのは一朝一夕に変えれるものではないが、根気強く続ければいずれ変わる、ということらしい。毎日、鏡の前で、言葉を声を出して自己暗示させろ、とのことだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「昨日の続きを話そう」と漢字仙人は言う。「次は右脳の潜在意識についてだ。昨日の言ったけど、右脳はみんなを喜ばすためにある」
僕は昨日から思っていた。みんなのため、という言葉は偽善のように聞こえる。人はそんなに善人ではないと思う。僕はそれを口にした。「それは理想だけど、みんな自分のためにしか生きていませんよ」と。
漢字仙人はしばらく考え、「それは、そうかもしれないね」と答えた。「しかし思い出してほしい、小学生の頃を。勉強嫌いな君が、どうして漢字は勉強した?それは自分のためだったかい?」
僕は思い出す。小学生の頃の担任の先生の顔を。
漢字仙人は話しを続ける。「それに私が言っている、みんなのため、といのは、自分も含むみんな、という意味だ」
僕は、漢字仙人の言葉を理解し、口を挟むのを止めた。
「じゃあ、続きを話すよ」と漢字仙人は言い、右脳の潜在意識の説明を始めた。「右脳の潜在意識が働くとき、シンクロニシティ、引き寄せられの法則が起きると言われている」
「引き寄せられ?」。僕は訊いたことのない言葉だったので訊き返す。「なんですか?引き寄せられって」
「自分にとって、思いもよらない良い結果が起きること。導かれると言えばいいかもしれない」
漢字仙人は筆を執り、字を書いた。『使命』。もう一枚『運命』。
漢字仙人は書いた字を僕に見せ、「『使命』とは『使われる命』だし、『運命』とは『運ばれる命』だ。これらは自分の意思は介入してない。だから、引き寄せられ」
僕は、興味が湧いた。みんなのため、という言葉は、都合の良いお人好しみたいでイメージで嫌だけど、使命とか運命は、神聖で崇高なイメージがある。僕はより漢字仙人の言葉に耳を傾けた。
「引き寄せられの意味は理解できたかい?」と漢字仙人は言う。僕は頷いた。漢字仙人は、右脳の潜在意識について説明を続けた。
「右脳の潜在意識を使うには条件がある」
「条件?」
「その条件は、夢の中にいること」
「夢の中?」
「君は集合的無意識という言葉は知っているか?」と漢字仙人は訊く。
そういえば、以前、僕が買ったスピリチュアルの本に書いてあった。潜在意識の深くでは、みんな繋がっている、ということが載っていた。僕は、漢字仙人の問いに、「知っている」と頷いた。
「まさに、この夢の中が集合的無意識の世界なんだ。君は、ここが自分の夢の中だと思っているかもしれないが、私の夢の中に君が来たと思えないかい?」
僕は、そんなこと考えもしなかった。自分の夢の中に漢字仙人が現れていると思っていた。僕は否定しようと思ったが、否定する材料が思い付かなかった。
漢字仙人は話しを続けた。「まあ、この空間がどちらの夢かは分からないし、そもそも誰のものでもないのかもしれない。夢の中はワンネスなんだ」
「ワンネス?」
「この空間には全てが有り、全てが繋がり、全てが混ざり合っている」。漢字仙人は、そう言うと指をパチンと鳴らした。
今まで真っ白な空間だったのが、暗闇に包まれた。僕は眩暈のような浮遊感に襲われ、不安を感じた。声を上げて助けを求めようとした瞬間、光が現れた。青白い光の粒。その光の粒が無数に広がり、暗闇を照らす。そして光の粒を覆うように、淡いオレンジの光が炎のように揺らいでいた。
綺麗だった。不安は一瞬で消え、心奪われ、溶け込んでいく。
僕は、これを見たことがある。これは天体望遠鏡で撮られた宇宙の写真だ。その宇宙の中に僕がいた。
「私たちは宇宙と混ざり合っているし、宇宙そのものなんだ」
漢字仙人の声が聞こえた。漢字仙人は僕の目の前にいた。漢字仙人は再び指をパチンと鳴らした。元いた真っ白な空間に戻って来た。
真っ白い空間に戻ってきたが、僕は放心状態だった。にわかに信じがたい光景が目の前に広がっていたのだから。
「そろそろ落ち着いたかね」と漢字仙人は言った。しばらく、ほうけていた僕に漢字仙人は声を掛けた。僕は落ち着きを取り戻したので、「はい」と答えた。
「夢の中で働いている右脳の潜在意識を、起きながら使える方法もある」
漢字仙人はそう言うと、筆を執り、字を書いた。『無我夢中』と書かれていた。
「『夢中』は、文字通り『夢の中』ということだ。これは分かるよね?」
「はい」
「『無我』は、『我を無くす』と書いているが、自分を消せ、という意味ではない。ましてや、興奮のあまり我を忘れる、ということとは全然違う。むしろ興奮とは逆で、静寂で落ち着いてる状態だ。無我とは、自分と世界との境界が無くなり一体となった感覚なのだ」。漢字仙人はそう説明すると、僕に訊いた。「君にもそんな感覚になった経験はないかい?集中すると脳から雑音が消え、安心感や一体感に包まれる感覚になることが。そして満ち足りた気持ちになったとはないか?」
僕は思い出す。完全にそうなったと言い切れないが、似たような感覚は経験していた。それは、瞑想しているとき、それとペン習字をしているとき。毎回、そのような感覚になることはないけど、たまに集中したときは、何も考えず行えて、しかも時間もいつの間にか経過しているのだ。
僕はこのことを漢字仙人に話した。漢字仙人は「まず、その感覚を大切にしなさい」と言ってくれた。
漢字仙人は説明を続ける。
「無我夢中になることが右脳の潜在意識が働く。これだけでも十分で幸福感を得ることが出来るのだけど、もし君が無我夢中になれることで、誰かが喜はすことが出来たのなら、宇宙から応援されるだろう」
「宇宙から応援?」と僕は訊き返す。
「それをシンクロニシティと呼ぶ。必要なものが必要なタイミングで目の前に現れる。周りの喜びが多いほど、喜びが大きいほど、シンクロニシティも頻繁になるだろう。そして、自分でも思いもしない結果に導かれる」
僕は漢字仙人に質問した。「僕も右脳の潜在意識を使ったほうがいいですか?」と。
昨日までは、左脳の潜在意識を使ってお金を手に入れたかったのだけど、右脳の話を聞いて、右脳の潜在意識のほうが尊いように感じたからだ。
「知らんがな」
「・・・・・・がな?」
「左脳だろうが右脳だろうが好きなほうを使えばいい。それこそ自分の人生なのだから自分で決めなさい」
「でも、右脳のほうが立派なのではないですか?」
「良いも悪いもない。左脳だろうが右脳だろうが、生きて行くための機能にしか過ぎない」
漢字仙人の答えに僕が戸惑っていると、漢字仙人はヒントをくれた。
「左脳、右脳は、性格や環境によって使いやすい使いにくいはある。成長思考は左脳だし、繋がり重視は右脳。文明社会は左脳、自然の中なら右脳。自我の欲求を満足して左脳から右脳に変わる場合もあるし、危機的状況に陥れば、右脳から左脳に変わる。バランスの良い人なら、左脳で欲求を願いながら、目の前のやるべきことは没頭して右脳に変わる」
「じゃあ、僕もバランスよくなりたいです」
「それはみんなそう思うけど、左脳は不満を感じながら、満たされてないと右脳は働かない。そんな矛盾を受け入れていないといけない」
漢字仙人はそう言うと、僕の胸に人差し指を当てた。「結局、自分の心に訊くことだよ」
「自分の心に?」と僕は訊き返す。
「そう。潜在意識の前に、さんざん心のことを話したじゃないか。心と一致したほうの潜在意識を使うんだ。自我の欲求を満たしているのに左脳重視でい続けても幸福感は得られないし、自我の欲求を無視して右脳を使おうとしても辛くなるだけだよ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
僕は鏡の前で自己暗示をかける。自分は70点だ、と声に出す。心が反発するので、70点かも?と変えてみた。
まだ、そう簡単には思い込めない。本当に自分が70点だと思い込まないと、左脳の潜在意識は僕の望みを叶えてくれない。
やはり、右脳の潜在意識も気になる。
僕は無我夢中になれることを考える。ゲームは夢中になれる。でも、これはたぶん違う。無我ではなく、興奮して我を忘れて夢中になっているだけだ。ペン習字はどうだろう?ペン習字は無我夢中になれる瞬間はある。筆が僕の一部になり、筆先の感覚を感じることがたまにある。でもペン習字は僕にとって瞑想に近い。誰かを喜ばすためではない気がする。
いくら考えても、無我夢中になれて誰かを喜ばすことが見つからない。仕方がないから、ゲームでもして暇をつぶす。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
いつもは漢字仙人が教えることを聞いていたのだけど、今回は僕のほうから質問した。「無我夢中になれることを考えているんですけど見つからないんです。どうすればいいですか?」
「目の前のことに没頭すればいいんじゃない?」と漢字仙人は素っ気なく答えた。
「そういうのではなくて、誰かが喜ぶような、自分の使命が見つかるみたいなやつが見つかる方法がないのかな?なんて思っているんですが」
「好きなことやれば?」
やはり素っ気ない。素っ気ないというより、あまり関心が無さそうな答え方だったので、僕は苛立ちながら「その好きなことが分からないんです」と言った。
苛立った僕を見かねたのか、漢字仙人は一つため息を吐き言った。「そんなものはいくら考えても分かるわけないよ」
「じゃあ、どうすれば?」
漢字仙人は少し考え、「じゃあ、私の師匠を紹介してあげよう」と言った。
「えっ、師匠がいるんですか?」
「もちろん。無我夢中になるためのお手本のような人がいる」
「紹介してください」と僕は頭を下げた。
「じゃあ、いくね」と漢字仙人は言い、指をパチンと鳴らした。
真っ白な空間が変わった。目の前には普通の風景があった。民家があり、道路があり、空き地があり、どこにでもありそうな風景だけど懐かしいを感じた。そんな場所に、幼い子供がいた。三、四歳くらいの子供がしゃがんでいた。なんか見覚えがある顔だな、と見ていると、それは幼い時の自分だと気が付いた。
「ちょっと、どういうことですか?」と僕は、隣にいる漢字仙人に訊いた。
「あの子が僕の師匠だよ」
「あれは子供の頃の僕ですよね?」
「ここは夢の中。時間も空間も超越できるんだよ」
僕は何でもありだな、と思った。
僕は、なぜ漢字仙人が、このもの頃の僕を師匠と言ったのか意味が分からなかったので説明を求めようとしたのだが、その前に漢字仙人が、「私たちの姿は見えないから、近くで子供の君が何をしているか観察しよう」と言って、子供の僕の真後ろに僕を連れて行った。
子供の僕は何をしているのだろう?と覗いてみると、子供の僕はアリの行列を観察していた。じっと眺めて動かない。しばらくして動いたと思ったら、一方の手でアリの行列に壁を作った。アリは最初は戸惑っていたが、次第に手の壁を乗り越え、行列を作り直した。すると、子供の僕は、もう一方の手で二つ目の壁を作った。
子供の僕は、そんなことをずーっとやっていた。あまりにも長い時間だったので、見ていた僕は飽きていた。
僕が飽きているのを察して、漢字仙人は再び指を鳴らした。次の景色は、公園だった。公園の遊具で遊んでいる子供の頃の僕だった。先ほどと年齢は変わっていない。
公園には、子供の頃の僕だけでなく、他の子供もいた。中には小学生の子供もいた。
その小学生の子供が雲梯で遊んでいた。子供も僕もそれにくっついて行って遊んでいた。しかし子供の僕は、雲梯に届かず落ちるわ、届いたとしても力が弱くてすぐに落ちていた。それでも子供の僕は、何度も何度も小学生の列の後ろに行き、雲梯にチャレンジしていた。
僕は、子供の頃の僕を支えてあげたかったが、僕の体は実体がなく支えてあげることができなかった。
夕方になり、公園の子供たちはいなくなった。子供の頃の僕は、最後まで雲梯が出来なかった。
漢字仙人は「、そろそろ戻るよ」と指を鳴らした。また、真っ白な空間に戻って来た。
「私の師匠は子供たちだよ。無我夢中になれる天才だね」と漢字仙人は言う。
「それは、何にも考えてないからでしょ」
「それが良いんだ。大人になると、すぐ考える。これはこういうものだよね、と。やらないうちから知った気になっている。これは難しそうだから。これは向いて無さそうだから。自分は大体こんなもの。そうやって全部を知った気でいる。そんなんだから好きな事なんて見つかるわけない。そもそも好きなものなんて最初から無いんだから。考えてるだけでは見つからないんだよ」
「最初から無い?」と僕は訊き返す。
「興味があって、やってみて、やっていくうちに少しだけ出来て、でも出来ないこともあって、どうやったら出来るか考えて、やってみて、また少しだけ出来ることが増えて、この繰り返した先に、それが好きになっていくんだ」
漢字仙人は筆を執り、『好奇心』という字を書いた。
「小さな『好奇心』を無視するな。分かった気にならず、調べてみろ、やってみろ。好奇心がある限り、『好』きになる『可』能性が『大』きい」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
漢字仙人は、羨ましいと思うことや嫉妬の感情、それに苦手意識とかの負の感情も、実は好きなことに繋がるケースがあると教えてくれた。興味が全くないことなら、負の感情すら出ないということらしい。
とりあえず考えるより、行動してみることが重要で、三日坊主に終わったら、それは自分の好きなことではなかった、という一つの答えを手に入れたと思いなさい、と言ってくれた。
僕は以前から気になっていたものがあった。それは物語だ。映画に漫画、そして小説。物語を妄想の中で作ることはあったけど、本当に創造することは今までなかった。それは物語を創造できるのは、ごく一部の人間にしかできないと決めつけていたから。しかし僕は行動してみることにした。物語を創る上で、映画や漫画はそれ以外の技術が多くいるように思えたので、僕は小説を書くことに手を付けた。
もちろん、最初から書けるわけなく、小説を書くための本を買い勉強した。中には、模写がいい、と書いてあったので、好きな小説を書き写した。
そして小説の文章について気が付いたこともあった。
小説の文章は主に三つに分けられている。
一つ目は、説明の文章。
その小説の設定を伝える文章なのだけど、これがあまりにも長いと物語がだらけてしまう。細分化して、ストーリーの適した場所に振り分けたり、登場人物の会話に入れたりして伝えたほうがいい。でも大事な設定を後から付け加えると、後出しじゃんけんみたいになるから気を付ける。
二つ目は、会話の文章。
登場人物の会話だけど、話す口調や内容で性格が表す。突然、キャラに合わないことを喋らすのは注意したほうがいい。あと、誰が言ったのか?は分かりやすいほうが良い。
三つめは、描写の文章。
説明の文章と会話の文章以外で構成される。僕は描写とは読者に変化を伝えるためにあると思う。時間が過ぎたり、場所が移動したり、そういう変化を伝える。もちろん登場人物の行動、表情、心理、そういうものが変化したことを伝えるための文章。
基本はこんな感じだと思う。
もちろん上手い文書を書こうとしたら、比喩表現やリズム感とか色々あると思うが、まずは一本、小説を書き上げることを目標にしたい。
そうは言っても、小説を書き出しても、途中で筆が止まることが何度もある。僕はそのたびにゲームに逃げた。でも、一度ゲームをしてしまうと、ついついゲームばかりして何も書かずに一日が終わってしまう。そこで僕は、ゲームを禁止した。せめて、この小説を書き終えるまでは封印することにした。
たとえストーリーに煮詰まって書けない日があっても、それでも原稿画面を開く。これだけは絶対にする日課にした。
毎日、原稿画面を開く。これをやりだしてから、筆が止まることはあるが、急にストーリーが思い浮かぶことがあった。スピリチュアルの本にも書いてあったが、脳は常に答えを探す性質があるそうだ。それは無意識の領域でも探すという。僕は、どう書こうか?と悩むことで、脳が勝手にアイデアを探してくれてたのだろう。
そうして僕は、一本の小説を書き上げた。まずまずの出来だと自負する。僕は思い切ってコンテストに応募した。WEB上の小説サイトのコンテストだった。このくらいのコンテストなら、入賞くらいは堅いだろうと高を括っていた。僕はワクワクしながら発表を待っていた。
応募したから一か月ぐらいして、中間選考なるものがあった。僕の作品はなかった。
僕の小説は、箸にも棒にも引っかからないくらい面白くないのだと突き付けられた。
結局、僕には才能が無いのだと落ち込んだ。それでもいつも筆ペンをやった。
僕は手本にしている本、『奇跡を起こす漢字ドリル』を開く。丁度開いたページには『夢』と書かれていた。僕は瞬間的に苛立ちを覚えた。頭に血液が充満した。僕は『奇跡を起こす漢字ドリル』の本を手に取り、壁にぶち投げた。
こんなこと地道に続けても無駄だった。すべて無駄。僕は何もかも手を付けず、ゲームだけをした。何もかも忘れたかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
僕は夢を見た。久しぶりに真っ白な空間に来た。小説を書きだす前に来たから、だいぶ久しぶりだった。
僕は漢字仙人を見るや文句を言った。「潜在意識なんて使えないじゃないか?」と。「何にも上手く行かないし、ただただ無駄なことをしただけだった」
「何があった?」と漢字仙人は訊いてきた。
僕は言ってやった。「小説を書いたけど、全然結果が出なかったじゃないか」と。
「また書けばいいじゃないか?」
「もう止めた。僕には才能が無い」
「そんな言い訳は失礼だ」と漢字仙人は語尾を強めた。「君は一万時間の法則を知ってるか?」と訊ねてきた。
僕は少しビビりながら、首を横に振った。
「一流の技術を習得するまでの時間は、どんな人でも一万時間かかるというものだ。これは、一万時間かければ誰でも一流の技術を習得できると言ってるわけではないよ。ただ、一万時間をかけず、才能が無い、て言い訳するのは、一万時間かけて習得した人にも、一万時間かけて習得できなかった人にも失礼だ。才能が無いと証明したいのなら、一万時間かけてみろ」
僕は反論する。
「そんな一万時間かけて結果が出せなかったら人生の無駄になるじゃないか。馬鹿らしい」
「無駄になる?無駄になることを気にして何もしないほうが人生の無駄だろ。無駄なことしたくないのなら、飯食って、クソして、寝てろ。これが一番、無駄のない人生だわ」
鼻息の荒くなった漢字仙人は筆を執り、字を書いた。『結果』という字が荒々しく書いてあった。
「いかん、いかん。私としたことが心を乱すとは、まだ修行が足りん」と漢字仙人は独り言のように呟いた。そして『結果』という言葉の意味を教えてくれた。「『結果』とは、『果てしないところで結ばれる』ものなんだ。確かにすぐに出る結果もある。でも、ほとんどの結果が、あの時のあれがあったおかげでって、のちのち分かることのほうが多いんだ」
漢字仙人は深呼吸を数回し、話を続ける。
「今こうして、君と私が出会っているのも、君が小学生の時に漢字を勉強したおかげでもある。先生を喜ばせたくて、たくさん漢字を勉強しただろ。無我夢中で漢字を書いたからなんだよ」
僕は、『奇跡を起こす漢字ドリル』の本を買ったからだと思っていた。「そんな昔のことが今に繋がっているなんて」と呟いた。
漢字仙人は言った。「だから安心して無駄のことをしていなさい」と。
「あと簡単に、自分は才能が無い、という言い訳を使ってはダメだ。楽しく無くなくなったのなら辞めればいい。新しくやりたいことが出来たのなら、新しいことに切り替えてもいい。でも、その才能が無いという言葉は、自分を諦める言葉になりうるのだから」
漢字仙人は再び筆を執る。『泣く』という字を書いた。今度はいつもと同じように丁寧に。
「辛ければ泣きなさい。悔しければ素直に泣きなさい。『涙』が君を『立ち直らせてくれます』」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
僕は目を覚ますと、目尻に涙の乾いたカサカサした感覚があった。僕は顔を洗い、鏡の前で、もう一度小説を書こうと決意した。
僕は毎日、漢字仙人の漢字を繰り返す。
『愛』は、『心を受け止める』。
どんな心の状態でも受け止める。
『息』は、『自分の心』。
息で心を整える。
『運動』は、『運は動から』。『食』は『人を良くする』。
心だけでなく、体も元気に。
『歩』は、『止まることが少ない』。『靴』は、『革める』『化ける』。
やる気は小さな一歩から。
『信じる』は、『その人の言葉』が大切。
自信は、自分を信じること。
『無我夢中』は、『無我』で『夢中』なれること。
好奇心を無視しない。
まだ小説の二作目は、書き始めては無いが、結果はいつか出るのだから安心して無駄のことをしよう。
そう僕は、自分に言い聞かす。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
漢字仙人は突然僕に告げた。「これが最後の教えです」
僕は驚き、「えっ、どうしてですか?」と訊き返した。
「今まで教えたことを繰り返せばいいだけだから、もう教えることが無いんだよ」
「そんな、まだまだ教えてほしいのに」と言い、僕は寂しさを感じた。
漢字仙人は筆を執った。半紙に『命』と書いた。
「『命』は、『人が一回叩かれる』と書く。命の本質は、心臓が一回叩かれることになる。一回、鼓動を打って、そして血液が全身を巡る。次は、鼓動を打ってくれるかどうかは誰にも分からない。鼓動を打つ場合もあれば、打たない場合もある。確率は1/2だよ。ちなみに君は、一日に心臓の鼓動数を知っているかい?」
「知りません」と僕は答えた。
「一分で七十回。一日で約十万回だ。ということは、一日生きたというのは、サイコロを十万回振り、連続して十万回偶数が出たことと同じなんだ。私たちが生きているのはすごい確率で生きているんだ。生きているだけで奇跡は起きているんだよ」
漢字仙人は筆を執った。『有難う』と書いた。
「『有難う』とは『難しいが有る』。命があることは、有り難いことなんだ。だから、命に感謝しなさい」
漢字仙人は自分の胸に手を当て、ありがとうと何度も呟いた。僕も漢字仙人を真似し、ありがとうと何度も呟いた。すると自然と涙が溢れてきた。
漢字仙人は言った。
「今日の教えは、最も大切なことで、最も根本的なことです。命があれば選択肢がある。命があればチャンスがある。命があれば可能性がある。私はあなたを信じています」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
朝になり目が覚めた。
生きている。そして、僕の物語が始まる。
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