【怪談】針供養

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 針供養の起源は不明だが,平安時代より前に中国から日本に伝わった文化と言われている。  かつて日本では裁縫仕事は女が金を稼ぐ数少ない職業の一つとされ,硬い生地を縫うことで使えなくなった針を豆腐や蒟蒻に刺して,最後は柔らかいところで休んでもらうという意味を込めて使えなくなった針を供養した。  江戸時代になると「淡島願人(あわしまがんにん)」と呼ばれる淡島信仰の普及活動をする信者たちによって日本各地に針供養が拡まっていった。  柔らかい物に針を刺す行為でこれまで酷使され続けた道具が供養できるといった発想は,歪んだ思想をもつ権力者たちにとっては非常に興味深く,彼らの歪んだ欲望を満たすには十分すぎた。  これは主に明治から昭和初期にかけて,現在の滋賀県の琵琶湖のほとりにある地域で起こった話である。  当時,この地域には京都の寺の流れを汲む社寺と呼ばれる神社仏閣が点在し,それぞれが独立した教義をその土地に広めていった。  各社寺を治める総代は,京都からの影響が弱いことを理由にそれぞれが一国一城の主のように振る舞った。  そんな総代が自身の欲望を満たすために目をつけたのが針供養であり,当時,針を扱う女たちの中に総代の目にとまった女がいると「針供養である」と言って女を寺の奥に監禁し拘束した。  寺の者たちは,そんな女の柔肌に何千本もの針を刺して体がボロボロになって使い物にならなくなるまで歪んだ欲望を満たして楽しんだ。  針から滴る血は石の床に血の池を作り,乾いた血が針を真っ黒に変色させた。  女たちは薄れゆく意識のなかで家族の名前を呼び,両親や夫に謝罪し,そして子供がいる女は子供の成長が見られないことを悲しみ息を引き取った。  (むくろ)となった女たちは供養されることなく,琵琶湖のほとりに掘った大きな穴にまとめて埋められその血肉は琵琶湖の一部になっていった。  血を吸って錆びて使い物にならなくなった数万本もの裁縫針は,毎年十二月八日か二月八日の事始めに社寺の業火で焼かれて鉛塊へと戻され業者へと買い取らせた。  時代とともに総代が変わることでその慣習も消えていったが,一部の社寺では昭和中期まで歪んだ性処理の道具として女を弄んだ「針供養」が行われていたと表に出ることのない記録に残されている。  今でも琵琶湖から京都へと続く山道を全身に針を刺されて血を垂らしながら家族の名前を呼ぶ女たちの姿が目撃され,地元の人たちの間ではそんな山道で黒く変色した裁縫針が落ちていても決して拾ってはいけないと言い伝えられている。  そのためこの土地の住民たちは,人のいない山道に錆びた裁縫針が落ちていても疑問に思う者は令和になっても誰もいないという。
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