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3品目:丸ごとイカのバター焼き
九郎は久しぶりの休日を思う存分楽しむように、昼過ぎまでぐっすりと寝ていた。目を覚ました時、時計の針はすでに午後を指していた。静かな部屋の中、ふとお腹が減っていることに気づく。いつもは仕事で追われる日常の中、こんなにのんびりと起きるのは滅多にないことだ。せっかくの休みだし、美味しいものでも食べに行こうかと九郎は思い立った。
特に目的地は決めず、九郎は近くの駅へ向かう。電車に乗り込み、適当な席に座ると、窓の外に流れる景色をぼんやりと眺める。目的もなく電車に乗るのは、ある意味贅沢な時間の過ごし方だ。そんな風に考えているうちに、ふと降りた駅は川崎だった。
川崎の駅を出た九郎は、どこか懐かしい都会の雰囲気に包まれながら、ゆっくりと歩き始める。昼過ぎの川崎は、まだ多くの人々が行き交う賑やかな街だ。けれど、九郎は自然と人混みを避け、静かな裏通りへと足を運んでいた。喧騒を離れると、そこにはひっそりとした路地裏が広がっている。
歩き続けるうちに、九郎の目に止まったのは、古びた木製の看板が掛かる一軒の居酒屋だった。看板の文字は少し擦り切れていて読みにくいが、「あぁ、こういう店が一番美味しいんだろうな」と直感的に思う。店の外観はくたびれているが、かすかに漏れる灯りがどこか温かさを感じさせた。
「入ってみるか…」九郎は少しの不安を覚えつつも、意を決してその扉を開けた。古びた扉が軋む音を立て、店内からは賑やかな声と、香ばしい匂いが九郎を迎えた。思ったよりも狭い店内には、カウンター席が数席あるだけだったが、常連客と思しき人々が楽しげに談笑している。
九郎は空いているカウンター席に座り、メニューを手に取った。周囲を見回すと、店主が忙しそうにカウンターの向こうで動き回っている。九郎はふと、店主に「おすすめの料理は何ですか?」と尋ねた。すると、店主が答える前に、隣に座っていた常連客が勢いよく口を挟んできた。
「ここは丸ごとイカのバター焼きが最高だよ!」
「いやいや、〆め鯖の炙りが絶品だって!」
「いや、やっぱり定番のもつ煮込みだろう!」
店内が一気に賑やかになる。常連客たちが次々に自分のおすすめを挙げていく様子に、九郎は少し圧倒されながらも笑みを浮かべた。結局、どれも美味しそうで悩んだ末に、九郎は「……イカ焼きお願いします」と決めた。
「おう、イカ焼きね!それはいい選択だ」と店主が笑顔で応え、さっそく鉄板でイカを焼き始める。バターがじゅわっと溶けていく音が聞こえ、店内に広がる香りが九郎の食欲をさらに掻き立てる。
しばらくして、目の前に出されたのは、香ばしい匂いを漂わせた丸ごとイカのバター焼きだった。シンプルな見た目だが、しっかりと焼かれたイカは食欲をそそる。九郎は箸を取り、イカの一切れを口に運んだ。柔らかなイカの身に、バターのコクが絶妙に絡み合い、口の中で広がる旨味に九郎は思わず目を細めた。
「うまい…」自然とそんな言葉が口をつく。九郎はイカを味わいながら、目の前の料理に心から満足していた。店主との軽い会話や、周りの常連客とのやり取りも、なんだか温かく感じる。初めて来た店とは思えない居心地の良さが、九郎の心を和ませた。
しかし、そんな楽しいひとときも終わりに近づく。イカを食べ終え、満足感に浸りながらも、ふと九郎の頭に浮かんだのは、明日からの仕事のことだった。いつも通りの仕事が待っている。九郎はため息をつきながら、ぽつりと呟いた。
「明日は仕事かぁ……はぁ……」
せっかくの休みで、楽しい時間を過ごしても、結局現実は変わらない。九郎は少し気持ちが沈みながらも、支払いを済ませ、店を後にした。外に出ると、川崎の夜は静かに更けていた。路地裏を抜け、九郎は再び賑やかな通りへと歩いていく。
今日は美味しいイカ焼きを食べて、少しの幸せを感じた。だが、やはり明日からの仕事が待っている。九郎はそんな思いを胸に抱えつつ、また次の休みに美味しいものを探す旅に出ようと心に決めていた。
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