4品目:〆め鯖の握り

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4品目:〆め鯖の握り

ある週末の朝、九郎はいつもの平日と同じように目が覚めた。カーテンの隙間から差し込む朝日が部屋を照らし、時計の針はまだ早朝を指している。目覚めたばかりの頭がぼんやりとする中、彼の中に突然一つの思いが浮かんだ。「寿司が食べたい」。それは強烈な衝動であり、彼を突き動かすには十分だった。 九郎はすぐに支度を整え、電車に乗り込んだ。窓の外を流れる景色を眺めながら、彼はどこで寿司を食べるかを考える。思い浮かんだのは、三浦半島の新鮮な海の幸だった。魚が美味しい場所なら、やはり港町だろうと考えた九郎は、一路三浦半島へと向かった。 三浦半島に到着した九郎は、駅からほど近い港の近くを歩き回った。観光客向けの賑やかな店を避け、地元の人々に愛されるような、隠れた名店を探す。すると、古びた外観の小さな寿司屋が目に留まった。木製の看板には「寿司」の文字が書かれているが、長年風雨に晒されたためか、少し読みにくくなっている。 「ここだな…」九郎は直感的にそう思い、暖簾をくぐった。 店内はこぢんまりとしており、カウンター席が数席あるだけだった。温かみのある木のインテリアが心地よく、まさに地元に愛されてきた店という雰囲気が漂っている。カウンターの向こうには、大将が一人、真剣な表情で寿司を握っていた。 九郎がカウンター席に腰を下ろすと、大将が「いらっしゃい」と短く挨拶をした。その落ち着いた声に、九郎は少し緊張を和らげられた。「おまかせでお願いします」と、九郎はすぐに注文を告げた。 大将は手際よくネタを準備し、次々と寿司を握っていく。最初に出されたのは、ピカピカと光るマグロの赤身。その鮮度は一目瞭然で、口に含むと、まるでとろけるような食感が広がる。続いて出されたブリも脂が乗っていて、九郎は自然と笑みがこぼれた。 しばらく食事を楽しんでいた九郎だったが、ふと川崎の居酒屋での出来事を思い出した。あの時、店主におすすめを尋ねたところ、常連客たちが口々にイカ焼きと〆め鯖の炙りを推してきた。九郎は迷った末にイカ焼きを選んだが、結局しめ鯖の炙りを食べる機会を逃してしまった。そのことが、今でも心に引っかかっていた。 「今日は、もし〆め鯖が出たら絶対に食べよう」と心に決めた九郎。すると、その瞬間、大将が「これは今日の一押しだよ」と言って出してくれたのが、まさにその〆め鯖の握りだった。 しめ鯖はシンプルな握りでありながら、見た目からその鮮度と丁寧な仕事ぶりが伺える。九郎は一瞬、ためらいを感じたが、次の瞬間にはそれを手に取り、口へと運んでいた。鯖の身は、ほどよい酸味が効いており、噛むたびにその旨味が口の中で広がる。 「〆め鯖がこんなに美味いなんて…」九郎は思わず呟いた。 「この鯖は今朝早く、地元の漁師が直接持ってきてくれたものなんだ。鮮度がいいからこそ、こうやってシンプルに仕上げるのが一番だと思ってね」と、大将が誇らしげに語る。 その時、隣の席に座っていた常連客の一人が、九郎に声をかけてきた。「この店、初めてかい?ここは地元でも評判なんだよ。大将の握る寿司は、どれも絶品だからな」と笑顔で話しかける。 九郎はその言葉に頷き、「はい、今日初めて来ました。確かにどれも素晴らしいですね」と答えた。会話が弾み、常連客たちは寿司の話題から地元の話まで様々なことを教えてくれた。九郎はその温かい雰囲気に包まれながら、地元の人々との距離が自然と縮まっていくのを感じた。 食事が終わり、九郎は大将に感謝の言葉を伝え、店を後にした。外に出ると、海からの風が心地よく吹いていた。美味しい寿司を堪能し、地元の人々との温かい交流に心が満たされた。しかし、その満足感と同時に、九郎はまたもや明日からの仕事のことを考えてしまう。 「明日は仕事かぁ……はぁ……」九郎は重い気持ちで呟いた。せっかくの休みでリフレッシュしたはずなのに、仕事のことを考えると一気に現実に引き戻される。 九郎はその思いを胸に抱えながら、帰りの電車に乗り込んだ。だが、今日の寿司と地元の人々との出会いが、彼に少しの勇気と活力を与えてくれたことは間違いない。次の休みには、また新しい場所で美味しいものを探しに行こうと、九郎は心の中で決意を新たにした。
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