5品目:天せいろ

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5品目:天せいろ

夏の朝、九郎はいつも通り早く目を覚ました。窓の外では、すでに太陽が高く昇り、空気は湿り気を帯びている。部屋に差し込む強い光に、彼は軽く眉をひそめた。「今日は一段と暑いな……」そう感じた瞬間、九郎の心に浮かんだのは、サラッと食べられるものが欲しいという思いだった。 いつもなら昼過ぎまで寝ているところだが、今日は早くから体が動きたがっている。だが、この暑さの中で食べるには、重たいものは避けたい。冷たいものがいい。考えを巡らせるうちに、ふと九郎の脳裏に「蕎麦」という選択肢が浮かんだ。涼しげで、喉越しがよく、そして何より、この暑さにぴったりだ。 「鎌倉で蕎麦を食べよう」九郎はそう決意し、さっそく支度を整えた。鎌倉の古風な町並みと、ひんやりとした蕎麦を思い浮かべると、自然と足が軽くなる。いざ鎌倉に我ゆかん。 電車に乗り込んだ九郎は、窓の外を流れる景色を眺めながら、冷たい蕎麦を楽しむことを思い描いていた。鎌倉に到着すると、駅を出てゆっくりと歩き始める。観光客で賑わう小町通りを避け、九郎は静かな裏通りへと足を運んだ。夏の朝の光が、木々の隙間から柔らかく差し込み、古い木造の建物が立ち並ぶ町並みを照らしている。 「こんな静かな場所で、落ち着いて蕎麦を食べるのも悪くないな……」九郎はそう思いながら歩いていると、目に留まったのは、古びた木製の看板。「蕎麦」と書かれたその看板は、時の流れを感じさせるが、どこか温かみを感じさせた。 「ここにしよう」九郎は迷わず暖簾をくぐった。 店内は静かで落ち着いた雰囲気が漂っていた。木の香りがほんのりと鼻をくすぐり、壁には古びた時計が時を刻んでいる。店全体に流れる空気は、まるで時間がゆっくりと進んでいるかのようだった。カウンターに腰を下ろすと、年配の店主が穏やかな表情で「いらっしゃい」と声をかけてくれる。 「おすすめをお願いします」と九郎が注文すると、店主は少し考えるようにしてから、「それなら、天せいろがおすすめです」と答えた。九郎は頷き、心の中で「天ぷらもいいな」と期待が膨らんだ。 ほどなくして、蕎麦が運ばれてきた。涼しげなせいろに盛られた蕎麦は、見るからに美味しそうで、添えられた天ぷらもカラリと揚がっている。九郎は箸を取り、まずはつゆや薬味を使わずに一口だけ蕎麦を手繰った。 口に含んだ瞬間、蕎麦の香りが鼻を抜け、噛むたびにその香りがさらに広がっていく。蕎麦粉の風味が豊かで、コシのある食感が心地よい。喉を通り過ぎる瞬間、爽やかな冷たさが体全体に染み渡る。「これだよ、これが求めていたものだ」と九郎は内心で大きく頷いた。 次に九郎は、蕎麦をつゆに軽く浸してから食べた。つゆの出汁が蕎麦の風味を引き立て、口の中で絶妙なバランスを奏でる。さらに薬味を直接蕎麦の上にのせてみる。細かく刻まれたネギや山葵が、蕎麦の香りを損なわずにさらに深みを加え、九郎はその豊かな味わいに思わず微笑んだ。 「お客さん、若いのに通な蕎麦の食べ方を知ってるねぇ」と店主が感心したように声をかけてきた。九郎は少し照れくさそうにしながら、「蕎麦の香りを楽しみたいんです」と答えると、店主は嬉しそうに頷いた。 「この蕎麦は、地元の契約農家から仕入れた蕎麦粉を使っていてね。毎日少量ずつ手打ちで打っているんですよ。この季節は特に、蕎麦の爽やかさが際立ちます」と店主は語る。その言葉に、九郎は蕎麦に込められたこだわりと、作り手の情熱を感じた。 蕎麦と天ぷらを味わい尽くした九郎は、満足感に浸りながら静かにお茶を啜った。蕎麦の余韻が心地よく、体の芯から涼しさが広がっていくようだった。 食事を終え、九郎は深々とお辞儀をして店を後にした。外に出ると、強い陽射しが再び彼を迎えたが、心の中にはひんやりとした蕎麦の余韻がしっかりと残っていた。再び鎌倉の町並みを歩きながら、九郎は心の中で「またこの蕎麦を食べに来たいな」と強く思った。 電車に乗り込んだ九郎は、今日の蕎麦が自分にとっての小さなご褒美であり、この暑い夏の日を涼やかに乗り切るための力となったことを感じていた。明日からまた仕事が始まるが、このひとときが彼の心を少しだけ軽くしてくれたことは間違いない。
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