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(二)宇宙
宇宙が生まれた。
生まれたというより、宿った。生命が母胎に宿るように。
宿したのは『無』。
無という母胎の中に、宇宙が宿った。
だから無が、宇宙の源。無がすべての根源であり、故郷である。だから今もわたしたちは、無の中に存在している、と言ってもよい。
宇宙を宿した瞬間、不思議、不思議。宇宙という存在の出現によって、無は消滅した。元々無だった無が消滅した。何処へ消えたのかも、今となっては分からない。あたかも宇宙という我が子を産み落とすために、無は自らを犠牲にしたかのように。(その時無が味わった産みの苦しみは、以後すべての生命に受け継がれることになる)
けれど無は消滅したのではなく、ただひっそりと何処かへ身を隠しただけなのかも知れない。我が子の誕生、成長、存在を遠くで見守る母のように。或いは無は、自らの無と、有である宇宙とが両立し得ないことに気付いて。自らが持つ無のエネルギーが、折角誕生した宇宙を、宇宙という生命を、再び自らが飲み込まんとするのを恐れて。ただ我が子を守るために……。
けれど無が何処かに、何処かこの宇宙の外側に潜んでいるとしたら、いつかやがてまた、無は復活するかも知れない。無が復活する時、それは宇宙が滅亡する時。文字通りすべてが、無に帰する時に、無に帰することに他ならない。
さて、無という母を失くした、或いは無という拘束から解放された宇宙は、無が残した無の残骸、無が支配していた即ち無の中に、一瞬にして膨張、拡大した。まるで母を慕い、母を捜し求める幼子のように。姿を隠した母の見えない力を借りて……。
母。無の無限の力を借りて、無限の無の中へ。それが自らが慕う母を、滅ぼすことであるとも知らずに。
かくして宇宙は、誕生した。
***
ぼくたちはひとつだった。やっぱり、ひとつ、だった。いや、まだ、ひとつだった。
ぼくたちにはまだ、感情も会話も言葉も、何にもなかった。なぜなら、無の中に、やっと今、生まれたばかりだったのだから。
ところが、そんなぼくたちの、耳?いやまだ耳も無いはずなんだけど……。けれど確かに、耳としか言い表せないぼくたちの中に、何かが聴こえて来た。聴こえて来たんだ。音?いや、それは『歌』だった。
歌。いや歌なんてものも、まだ存在しないはずなんだけど……なんでだろ?でも聴こえて来たんだよ。
それは西暦20世紀の歌或いは詩、ラヴソングだった。
『貝殻、足跡、波の音、空の青さ、木漏れ陽、プラタナスの木陰、夕映え、夕立、虹……』
それは、途絶えることなく流れた。と同時にぼくたちは混乱した。ぼくたちの中に、何か異変が起こりつつあるのを感じて。
「ねえ、なに」
「なに、って」
ぼくたちの中に突如、『言葉』と『会話』が生まれた。と言ってもぼくたちには口も声も無く、ぼくたちはテレパシーによって会話したのだが。テレパシー。
「だから、なに、これ」
「これ?」
「今、流れているもの」
「今?流れているもの?」
そして歌は続いた。
『駅のホーム、街の灯り、花火、星座、ラヴソング、風のにおい、夜明けの静けさ……』
答えを探そうとして、それを言い当てようとして、その言葉を。ぼくたちは必死でもがいた。ぼくたちの隅から隅を探し求めた。
沈黙。
そして、その言葉は不意に浮かんだ。
「うた!」
「うた?」
「そう、うた。これは、遥か遠い未来に存在した」
「未来?そうだ、ぼくも知っていた気がする」
沈黙。
「ぼく、って?」
「え」
「今、あなたが言った」
「ぼく、って?」
「そう」
「でも、きみも」
「きみ?」
「だから、きみも今、あなた、って、ぼくのことを呼んだ」
「あなた、って?わたしが?」
「わたしが、って。ほら、また……」
ぼくたちは明らかに動揺し混乱し、ぼくたちは何かを取り戻そうとするように、深い沈黙に戻った。
沈黙。ただ、深い沈黙。
何かとは?取り戻したい、取り戻さなければならない、何かとは?
それは、言葉の無い、会話の無い、ほんの少し前までのぼくたち。
ぼくたちは、使った(使わされた)、覚えた(覚えさせられた)言葉と会話を捨て去り、忘れ去り、そして以前のぼくたちに帰ることを切に願った。ただひたすら祈った。
けれど、けれど歌は続いた。
『目印はいくつもある、この星の上に……』
ぼくたちの願いは空しく無に帰し、ぼくたちの沈黙の中をされど、歌は流れ続けた。ぼくたちはもう言葉を忘れることは出来なかったし、会話をせずにはいられなくなっていた。もう以前のぼくたちに戻ることなど、不可能だった。
「ぼく」
「あなた」
「きみ」
「わたし」
「変だよ」
「変よ」
「さっきから、何かが変なんだよ。ちょうど、あの」
「あのうたが、流れ始めてから、でしょ」
「そう」
その時ふと、『輝き』が生まれ(けれどそれはすぐに失われ)、その一瞬の中で、ぼくたちはお互いを見た。確かに見つめ合った。いつのまにか引き離され、お互いに独立して存在するぼくたちの姿を。その時、ぼくたちがどんな姿をしているかということより、ぼくたちが引き離された、という事実、現象の方が、ぼくたちにとっては重要であり、辛い衝撃だった。
けれど、そして歌は続いた。
『この星の上でぼくたちが、いつかまたやり直せるように……』
「いたい」
突然きみが、つぶやいた。それは紛れもなく『感情』として。きみは既に感情を有していた。
「いたい?」
「こんな気持ち、初めて」
「気持ち、初めての。いたい……」
ぼくはきみの言葉を繰り返した。
「分からない?あなたには、分からない?」
「さっき」
「そう、さっき」
そして歌は続いた。
『時を越え、再びめぐり会えるように……』
「わたしたちが、引き離される時」
「ぼくたちが、引き離された時」
ぼくたちは引き離され、もう『ひとつ』ではなかった。そしてもう二度と再び、ひとつには帰れないのだと悟っていた。無の間、ずっとひとつだったぼくたち。その代償として、ぼくたちには、どうやら感情が与えられたらしい。
言葉と会話と、そして感情。
引き離される瞬間に、ぼくたちは各々の独立した感情を手に入れた。それがぼくたちにとって幸福だったのか、それとも不幸な出来事だったのかは、まだ分からない。
引き離されるという悲劇と、けれど独立した、という自由の喜び。感情を持つということの煩わしさと、けれど同時に感情を持つことの、叫び出したいほどの歓喜。喜怒哀楽、可笑しさ、悲しみ、泣き笑い、哀愁、ときめき、いとしさ、切なさ、いたみ(痛み、傷み)……。
それが幸か、不幸か(詰まり既にぼくたちは、ぼくたちが幸福か不幸かを意識し始めていた)を、ぼくたちに理解するすべなどなかった。
「いたい」
きみはつぶやき、そしてきみは、一粒の『涙』を零した。涙、それはこの宇宙の中で、初めての涙の滴を……。
そして歌はさらにまだ、続いていた。
『貝殻、足跡、波の音、空の青さ、木漏れ陽、プラタナスの木陰、夕映え、夕立、虹、星空、銀河……』
「 銀河?」
きみが流した一粒の涙は、『宇宙』になった。
それは砂漠に一粒の雨が降るように、暗黒の中に一筋の光が射すように、荒野に一輪の花が咲くように、海に一片(ひとひら)の雪が舞い散るように。そして(それまで総てを完全に支配していた)無へと、きみの宇宙は零れ落ちた。零れ落ち、そして無を満たした。
そして歌は続いた。
『駅のホーム、街の灯り、花火、星座、ラヴソング、風のにおい、夜明けの静けさ、友だち、恋人、仲間……』
「仲間?」
そして、歌は終わった。(そしてすべての準備は整った)
静かなる沈黙の中、一粒の涙の宇宙は、とどまることを知らず無の中を膨張した。
終わったはずの歌は、けれどまだ、続いていた。
『……目印はいくつもある、この星の上に、この星の上でぼくたちが、いつかまた……』
宇宙が元は一粒の涙だったと、もはや信じる者は誰もいない。宇宙がたった一粒の涙から生まれたことを、記憶している者も誰もいない。ぼくも、あなたも、きみも、わたしも……。
そして更にぼくたちは、宇宙の膨張と共に引き離されていった。宇宙の果てと果て、遥か遠い彼方へと離れ離れになり、もう二度と再び会うことはないと、ぼくたちは観念した。
そして歌は、とうとう終わってしまったのである。
『時を越え再びめぐり会えるように……目印はいくつもある、この星の上に』
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