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(三)時間
無と宇宙との闘争で、時が生まれた。
無の中に生まれた宇宙は、自らを産んだ無を塗り潰すように無の中に膨張していった。
宇宙が膨張していく時、無と、有である宇宙とが衝突し合った。無と有とが衝突する時、そこに熱エネルギーが発生した。熱は火となり炎となって宇宙を包み、さながら宇宙は燃える火の玉と化した。
燃え盛る宇宙の中で、火は一定のリズムで燃えた。火は燃えては消え、燃えては消えた。無と宇宙とが衝突するリズムに合わせて。
無と宇宙とが激しくぶつかり合う時に発生するリズム。すなわち消滅せんとする無と存在せんともがく宇宙との闘争、或いは無限エネルギーの源である無から、所詮は有限でしかない宇宙へと衝突の度に供給される熱エネルギーの循環音。
それは、宇宙の中で『鼓動』として鳴り響いた。
宇宙の鼓動は、弱々しく、けれど確かに鳴り続けた。鼓動は、一定のリズムで鳴り続けた。やがて鼓動は、『時』へと昇華した。
かくして宇宙は、時を刻み始めた。
***
いつかぼくは、きみを失ってしまったらしい。
静かなる沈黙の中で膨張を続ける宇宙の、一片と一片としてぼくたちは引き離され、宇宙の果てと果てとに別れてしまった。
どれだけ宇宙が拡大しただろう(或いはどれだけ無が失われたか)。それはほんの一瞬か、はたまた永久の永さか分からない。そんな宇宙の中でぼくがきみを失った悲しみに暮れている時、何処からか微かに声がした。
「あつい」
それは、懐かしいきみの声だった!
テレパシーによって、遥か遠い場所からぼくへと届いたきみの声に、ぼくは興奮した。
何処か、遥か遠いこの宇宙の何処かにきみはいる。ぼくはきみを捜して宇宙を見回した。すると宇宙の遥か遠い彼方、そこに炎のように燃えるきみの姿があった。
と同時に、ぼくもまた熱くなった。いつのまにかぼくも、炎のように燃えていたのだった。
「あつい」
ぼくもまた叫んだ。それはテレパシーに乗せ、きみへと届いた。
「なんて熱いんだ」
「とても、耐えきれないわ」
同じように苦悶する、きみの声が聴こえる。
「こんなに熱いのなら、早く燃え尽きて、灰になりたーーい」
そうぼくが叫んだ時、遠くからきみが答えた。
「それができないの」
「なぜ」
「なぜなら、わたしたちはまだ、不完全だから」
「不完全」
「わたしたちはまだ、無から宇宙へと変化する途上なの」
「無から宇宙へと、変化する途上。無から宇宙へ……」
冷静に考えようとしても、とても熱くて出来るはずがない。
「だからまだわたしたちは、完全ではない。完全な、宇宙じゃない」
「完全な宇宙じゃない。だからまだぼくたちは、燃え尽きて灰にすら、なれない」
そしてぼくたちは、沈黙した。というか熱さに身悶えた。
「あつい……」
「あつい……」
燃え盛る炎の宇宙の中で、ぼくたち自身熱く燃える炎となったお互いの姿を、見つめ合うしかなかった。
「だけど何のために、ぼくたちはこんな熱い思いをしなければならないのだろう」
ぼくは呟くように問い掛けた。
「分からない」
きみもまた、呟くように答えた。
「でもこれは、闘いなの」
「闘い」
「無と、宇宙との」
「無と宇宙との」
「無が勝って、再びすべてが無に帰すのか」
「無が勝って」
「それとも、無を焼き尽くして」
「無を焼き尽くして」
「宇宙が完全なる、宇宙へと進化するのか」
「進化」
進化という言葉の持つ意味を探してぼくは沈黙し、自らの燃え盛る炎に身を任せた。
「だけどもし宇宙が勝利して、完全なる宇宙へと進化した時、ぼくたちはどうなるんだい」
ぼくはきみへと問い掛けた。今度はきみが沈黙した。
「分からない」
そしてきみは不安そうに答えた。
「けれど今は、宇宙を信じるしかない」
「信じるしかない」
そしてぼくたちは、無と宇宙との闘争の中に戻った。
「あつい……」
「あつい……」
どれほど闘いは続いただろう。それは、永い永い悠久か、それともほんの一瞬……。
「あつい」
「あつい」
或る時けれどぼくたちは、ぼくたちを燃やす炎の勢いが弱まってゆくのを感じた。
どうしたのだろう。
もしかして闘争の終わりが、近付いているのだろうか。
だとしたら、無と宇宙のどちらが勝利を収めたのだろう。
ストン。
何か、音がした。何かが、床に落ちた時のような音だった。
その何かは、きみの近くに落ちた。きみはそれを拾い上げた。きみの炎は既に弱まっていて、何かに触れてももうそれを燃やすことはなかったから。
きみは、それを見つめた。それが何かは分からない。
小さいとげがたくさん付いた円筒と、そのとげに接するように櫛の形をした薄い鉄板が付いていた。さらに円筒には、ネジが付いていた。
きみは恐る恐る、そのネジを巻いた。すると……。
ボロボロポロン、ボロボロポロン……。
それは、音を発した。
「うた?」
恐る恐るぼくは尋ねた。きみは無言でかぶりを振った。確かに歌ではなかったけれど、それはどこか歌に似ていた。
「おるごーる」
暫くしてきみは、呟くように答えた。
「何」
「おるごーる」
「おるごーる?」
その瞬間、ぼくは幻を見た。ほんの一瞬だったけれど。
「何だ、今のは」
幻が去った後、ぼくは呟いた。するときみは反応した。
「いっしゅんのゆめ」
「えっ」
遠いきみを見つめながら、ぼくはきみに確かめた。
「もしかして、きみも見たの」
けれどきみはそれには答えず、黙り込んだ。
それから思い出したように、きみは答えた。幻を思い出すように。
「かるーせる」
「えっ」
「かるーせる」
「かるーせる?」
きみはまた、別の言葉を呟いた。
「うみ」
「うみ?」
どうやら確かにぼくたちは、同じ幻を見たらしい。まだ言葉にならない、否まだ言葉すら存在しないその幻の……。
「かるーせる、とか、うみ、って、何のこと」
「分からない」
きみは激しくかぶりを振り、けれど笑った。
「まわる、まわる、かるーせる
うみにうかぶ、かるーせる
おるごーるにあわせて、まわっている」
きみは魔法のようにつぶやいた。或いは歌ったのかも知れない。ぼくはそれを復唱した。
「まわる、まわる、かるーせる
うみにうかぶ、かるーせる
おるごーるにあわせて……」
けれどぼくたちはすぐに、その幻のことを忘却した。
ボロボロポロン、ボロボロポロン……。
きみがネジを巻いたオルゴールは、音色を奏で続けた。
……ボロボロポロン、ボロボロポロン……。
それは震えるように、一音一音ガラスの欠片が散るように。
砂漠に降った一粒の雨が、砂の大地へと吸い込まれてゆくように。
暗黒の中に、一粒の光が灯っては消え、灯っては消えるように。
荒野に咲いた一輪の花が、荒々しい風に吹かれて散ってゆくように。
海に舞い降りた一片(ひとひら)の雪が、すっと海へ帰ってゆくように。
……ボロボロポロン、ボロボロポロン。
「これは何の音だろう」
「しー!」
きみは答える代わりに、ぼくに沈黙を強いた。
「これは、何だろう」
けれどぼくは尚も、囁きで問いを繰り返した。すると、きみの囁きが返って来た。
「今、闘いが、終わったの」
「ええっ」
思わずぼくは、大声で叫びそうになった。
「しーーっ」
「ごめん。闘いが終わったって、無と宇宙の闘争が」
「うん」
「それで。それでどっちが勝ったの」
「どっちが」
「無と宇宙の、どっちが」
興奮するぼくに対して、きみは冷静かつ大人しかった。
「分からない」
「分からないって、どうして」
ぼくの興奮はエスカレートするばかり。
「しーっ、てば。お願いだから」
きみは懇願するように、ぼくを見つめた。
「ただ闘いが終わり、この音だけが残された」
「この音だけが」
ぼくは息を呑んだ。
……ボロボロポロン、ボロボロポロン。
そしてぼくたちは、静かに回り続けるオルゴールを見つめた。闘いを終えた宇宙の静寂の中に、オルゴールの音だけが響いていた。
昔、昔、戦争があった。
無と宇宙との壮絶な闘争。
無と宇宙との、それぞれの無と存在とをかけた、戦いが行われた。
昔、昔、戦争があった。
その期間は永久とも思える永さだったかも知れないし、ほんの一瞬だったのかも知れない。
それはもう遠い昔、気が遠くなるほど遥か遠い遠い昔の戦争……。
ボロボロポロン、ボロボロポロン……。
そしてオルゴールの音が止んだ。
ぼくは驚いてきみを捜した。まだ微かに残るぼくの炎の火を頼りに。ところがいつのまにかきみは、ぼくの隣にいた。
えっ。
けれどきみの手にはもう、オルゴールはなかった。
「どうしたの」
「なにが」
ぼくの問いに、きみはぼんやりと答えた。何だか気が抜けたような様子で。
「あの音だよ」
「あの音?」
「闘いの後に残された、闘いに疲れたぼくたちに唯一残された望み、喜びの」
「なんのこと」
それからきみはすぐに、我に返ったように答えた。
「あの音なら」
「あの音なら?」
けれどきみは恐る恐る答えを発し、その声は震えていた。
「こ、こ、に」
そしてきみは、きみ全体の『まん中』を指し示した。
「どこ」
「だから、あの音はここ、あの音ならここよ」
けれどやっぱり、あの音は聴こえなかった。じれったそうにきみが続けた。
「当ててみて」
「えっ」
「だから、ここに、あなたを当ててみて……」
相変わらずきみの声は震えていた。きみの言葉に従い恐る恐るぼくは、きみの『まん中』へとぼくを近付けた。
ドキドキ、どきどき
ドキドキ、どきどき
昔、昔、戦争があった。
無と宇宙との戦争。
そして宇宙が勝ち、無は滅びた。
何も存在しなかった無から、遂に宇宙へと進化した。進化、した。
その代わり無は宇宙から無限を奪い去り、従ってぼくたちは、有限を宿められた。
ドキドキ、どきどき
どきどき、ドキドキ。
宇宙の一片として無と闘ったぼくたちは、やがて燃え尽きて灰になった。それが、ぼくたちの望みでもあったのだが……。
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