(四)光

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(四)光

 宇宙に光が生まれた。  無との闘いを終えた宇宙、或いは無を失った宇宙。  それまで無が支配していた無を自らによって埋め尽くした宇宙は、徐々に変化を始めた。母を失った子どもが独りでも成長を続けるように、ひとりぼっちで健気に生きてゆくように。宇宙はひとりぼっちで旅を続けた。新たなる出会いを求めて。  闘いの炎つまり火が発する灯りによって、辛うじて無の暗黒から免れていた宇宙も闘いの終わるに従い火力は弱まり、宇宙は徐々に暗黒の闇へと逆戻りしていった。あたかも油断した宇宙の隙を逃さず、無が復活したかのように。  闘いの最後の残り火が消えた瞬間、宇宙は暗黒の闇に覆われた。宇宙は何処だ?宇宙はいずこへ?その暗黒の闇を無と呼ぶことに、躊躇する者は誰もいなかった……。  暗黒の闇。  無の如き、暗黒の闇。  ただただ深き闇、闇、闇……。  宇宙とは何だったのだ。  あの激しい闘いは、何だったのだ。 「パチッ」  或る時、ひとつの音がした。  何処かで誰かが手探りでやっと見つけた壁の照明スイッチを、ONしたような。その音と共に暗黒の宇宙の片隅に、何かが生まれた。  それは、光だった。  それは小さく余りにも小さく小さく弱々しく、けれど確かに灯る光だった。暗黒の闇を照らし出す、一輪の野の花のようなひかり。  ひかり、だった。  その僅か一点の光はしかし、次から次へと隣接する闇を刺激しながら、宇宙の中に拡がっていった。ひとつまたひとつ、眠っていた闇を揺り起こし、揺り動かして。  あたかも夜の都会の摩天楼に、灯りが点るように。  暗黒の海の彼方に連なる港の明かり、ハーバーライトを見出すように。  夜空に星が、瞬き出すように。  光は、宇宙全体へと拡大していった。  こうして、もはや宇宙が暗黒の闇へと帰ることはなくなった。もはや宇宙が無へと引き返すことは……そして不可能となった。  ***  どきどき、ドキドキ。  灰になったぼくは、宇宙に還った。ぼくはひとりだった。またぼくはきみを失ってしまったらしい。  宇宙は静かで、辺りはまっ暗だった。まるで闘いは無の勝利で終わり、再びすべてが無に帰したかのように。  宇宙は静かで、まっ暗だった。  宇宙に還ったぼくは宇宙に吸収され同化し、そのままずっと宇宙の中に漂っていた。何年何十年何百年、いや時の長さを越えて永遠でも一瞬でもない時の経過と別次元の中で。ぼくはただじっと、宇宙の中を漂い続けた。  何も考えず、眠るように、歌うように、祈るように、何かを待つように……。  宇宙の中は至福で満たされ、幸も不幸もなく、ただ在るがままに満たされまた懐かしくもあった。ぼくは宇宙の一部として、宇宙として存在した。  ぼくは宇宙。  だからこれから何処へゆこうともどんな姿に形を変えようとも、またたとえすべてが再び無に帰そうとも、ぼくがこの宇宙を忘れることはないだろう。  懐かしいぼくの宇宙。懐かしい、ただすべてが懐かしいぼくの。  ドキドキ、どきどき  何処からか遥か遠い宇宙の内部から聴こえ来る宇宙の鼓動が、ぼくを包み込んでいた。あたかも胎児を包む母の心音のように。  ドキドキ、どきどき  それは子守唄のように、祈りのように、そして来たるべき時の訪れを待つように、一音一音ぼくの中に響いた。  それは燃え尽きて灰となったぼくに、再び躍動する力と存在することの喜びを与えてくれた。教えてくれた。思い出させてくれた(つまり充電)。一片の灰でしかないぼくは、その鼓動によって宇宙を感じ、宇宙と一体化した。  宇宙の中で宇宙の一部として、紛れもなくぼくは至福に満たされていた。  ドキドキ、どきどき  ドキドキ、どきどき  そんな中、静かに何かが変化していた。  ドキドキ、どきどき  変化しているのは、そしてぼく自身だった。ぼくは何かに、灰から別の何かへと変化していたのだ。少しずつ少しずつ、何かに。けれどぼくに、不安や恐怖はなかった。なぜなら宇宙が、ちゃんとぼくを見守っていてくれたから。宇宙がぼくのその変化を、望んでいると感じられたから。更なる宇宙の進化のために、新たなる宇宙の一部としての使命を帯びて、今ぼくは何かに、(生まれ)変わろうとしていた。 「パチッ」  そしてぼくは、その音を聴いた。それが何の音かはわからない。ただその時ぼくの中で、何かが失われてゆくのを感じた。何かが、たとえば懐かしい宇宙が。  一体化していたはずの宇宙の鼓動から外れ、ぼくの中に、ぼくの中で、新しい別のぼく自身の鼓動が鳴っていた。  ドキドキ、どきどき  宇宙からもぎ取られるように引き離され、気付いたらぼくはただひとりぽつりと、この宇宙の中に存在していた。生まれたての弱々しい鼓動だけを頼りに。もしもこれが生まれるということなら、誕生とは宇宙の望み、計画、或いは進化の名の下に、一時的に宇宙から離れ、課せられた使命を果たすことであり、死とは再び宇宙に還ることに他ならない。  ドキドキ、どきどき  そしてぼくは、ぼく自身の姿を見た。見えた、或いは感じられた。なぜならぼく自身が、光を放っていたから。それは弱々しく今にも消えてしまいそうなほど小さな光だったけれど、この暗黒の宇宙の中で微かにおどおどと、けれど確かにぼくは光っていた。  もうぼくは、灰ではなかった。ぼくは『光』だった。ひかり。光は、ぼくの鼓動のリズムで点滅した。  ドキドキ、どきどき  弱々しく小さな光だったけれど、ぼくの光はぼくの隣で眠る宇宙の灰、まだ灰として眠り続けるその姿を映し出すのに充分だった。ぼくの隣の灰、ずっとぼくの隣で眠っていて、けれど今までずっと気付かなかった灰。それは、きみだった。  ぼくはきみを失ったとばかり思っていたのに、宇宙の暗黒と静寂とに覆われながら、きみはちゃんとぼくの隣にいて、ぼくたちは隣同士で眠っていたらしい。何処か遥か遠くへ去っていってしまったと思っていたきみが、実はこんなに近くで同じ宇宙の鼓動を感じながら、同じひとつの宇宙の中で一体化し同化していたなんて!  それはまるで無の時代、無の中であたかもぼくたちがひとつだったように。  無、無の時代。今はもう遠い、懐かしい無……。  ドキドキ、どきどき  きみは安らかに眠っていた。ついさっきまでのぼくがそうだったように、きみも今宇宙の一部として至福に満たされている。そう思うと、きみを起こすべきか迷った。けれどこのままでは、宇宙は暗黒と静寂とに支配されたままだ。それにひとりで灯っているには、宇宙は余りにも寂し過ぎた。ぼくは決心し、恐る恐る眠るきみを揺り動かした。  ぼくがきみに触れた途端、ぼくの光はきみへと伝わり、きみはぱっと目を覚ました。きみもまた、灰から光に変化したのだ。夜の闇の中に灯る二本のマッチの火のように、ぼくたちは弱々しく光った。  目覚めたきみは、不思議そうに辺りを見回した。 「ふう、なんだか眠い」  きみの光としての第一声。 「Happy Birthday」  ぼくは囁くように言った。 「え?」  驚いたきみ。 「それともGood Morning」  きみはやっと、ぼくに気付いた。 「どうしてあなた、ここにいるの?」  光になったぼくたちは、テレパシーで会話した。 「きみこそ」 「それにあなたのかっこう」 「きみだって」 「え?」  自分の姿に気付いたきみは、再び驚いた。 「ぼくたちは、光なんだよ」 「光?」  きみはしばし沈黙し、それから続けた。 「それじゃわたし、眠っていただけなの?」 「そうらしい。ぼくだって」 「でもわたしたち、燃え尽きて灰になったじゃない」 「そうさ、ぼくたちは燃え尽きて灰になった。間違いない」  だけどぼくは、知っている。  宇宙がその鼓動を通して、灰になったぼくに教えてくれたこと。  だからぼくは忘れないだろう。ぼくたちは宇宙の一部だと。  どんな姿形をしていても、いつどんな時も、何処にいても。  やがてぼくたちがまた灰となって燃え尽きる時、けれどそれはぼくたちの終わりではなく、ぼくたちはそうやってまた宇宙の中に帰ってゆくんだ。  そして宇宙の中でしばらく眠ったら、また宇宙はぼくたちを叩き起こすんだよ。  「コラ、イツマデネテルンダ!ミンナイソガシインダカラ、オマエモトットト、メヲサマセ!」  そうさ、だからぼくは忘れないだろう。  今ぼくの中で鳴っている鼓動。これは、宇宙がぼくに分けてくれた鼓動。  だから何も怖いことなんかない。  いつかまた燃え尽きて灰になっても、それは宇宙に借りた鼓動を、宇宙に返すだけのことなんだ。  そしてまた時が訪れたら、ぼくたちは甦る。  燃え尽きては甦り、甦っては燃え尽きる。  押し寄せては引き、引いては押し寄せる波のように。  だからぼくたちは知っている。  だけど宇宙は、どうしてそんな面倒なことをするのかって?  だってぼくたちは、無によって、無限を奪われたから。 「無限を奪われた?」 「そう、ぼくたちは有限と宿められた」 「有限」  きみは自らが放つ光を見つめた。きみの鼓動で明滅する光を。 「それじゃ、この光もまた、いつか燃え尽きるのね?」  ドキドキ、どきどき  ぼくたちの光は、ぼくたちの周りで眠る灰たちへと伝わった。灰たちは光に変化し、目を覚ました。目覚めた光がまた別の灰へと、変化は次から次へと伝わり拡がり、ぼくたちの周りは光でいっぱいになった。  光で満たされると、光たちはその場所を離れ、まだ灰だけが眠る他の場所へと移動した。宇宙の中の暗闇へと。そしてその場所を、また光で満たしていった。光たちは、広大な宇宙の中を猛スピードで旅した。光の速さ、光速で……。  ドキドキ、どきどき  きみとぼくもまた、宇宙の遠い暗闇へと旅立つ時が訪れた。まだ灰だけが眠る、宇宙の暗闇に光を灯すために。ぼくたちはそれぞれの場所へと、別れも告げず旅立った。別れの言葉を交わすのに光速はあまりにも速すぎて、ぼくたちは遠ざかるお互いの後姿を見送る暇さえなかった。  そうやってぼくたちは、別れの余韻に浸る間もなく、また宇宙の果てと果てとに、引き離された。  どきどき、ドキドキ……。  ぼくたちはそれぞれの場所で役目を終え、そしてまた燃え尽き、灰になった。  宇宙は、光で満たされた。
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