(五)原子

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(五)原子

 光の宇宙の中で、原子が生まれた。  光で満たされた宇宙は、オーロラと虹の世界だった。  光は飛び交い、ぶつかり合い、消滅し、再生した。オーロラとオーロラとが衝突し、虹と虹とが交錯した。七色の火花が、宇宙に飛び散った。それは美しい幻想的な世界だったが、これが宇宙の完成した姿では勿論なかった。光の眩しさに隠れて、眩しい光に包まれるように、ひっそりと何かが、形を成そうとしていた。  ある日ひとつの虹の中に、ふたつの微小な球体が現れた。  その微小さの中で、一方は大きく、一方は小さかった。  その微小な世界の中で、大きい方は静止し、小さい方は動き回った。  動き回る小さな球体が光に衝突するたび、小さな虹が生まれては消えた。夜空に舞い散る花火のように。  宇宙空間を自由に飛び回っていた小さな球体は、ある時大きな球体へと近付いていった。静止したままの大きな球体に吸い寄せられるように吸い寄せられるように、近付いた。近付いて一旦大きな球体の前で停止した後、小さな球体は大きな球体の周りを回り始めた。  一回り、二回り、三、四、五……、そしていつ終わるともなく回り続けた。  やがてふたつは一体化して、原子となった。原子が誕生すると、原子を隠していた虹は消えた。  原子は宇宙の中に満ち、それと入れ替わるようにオーロラと虹は姿を消した。  宇宙は一面、青く晴れ渡った。何かを待つように宇宙は、青かった。  ***  再びきみを失った後、光としての役目を終えたぼくは、灰となって宇宙に還った。ぼくは自らの鼓動を失い、再び宇宙の大いなる鼓動の中に同化した。  それは小さな波が、大きな波に飲み込まれるように、  ほんの小さな水の流れが、やがて海へと注ぐように、  一片(ひとひら)の雪が、海へととけてゆくように(とけた雪は滅したのでなく、ただ姿を変えただけ)。  再びぼくは、宇宙の中で眠り続けた。いつかまた、再び目覚める時を待ちながら。眠っている間ぼくは、虹の夢を見た。  いくつもの虹を渡ってゆく夢。  いくつもの虹を渡り、 いくつもの虹を渡り……。  目覚めた時も、ぼくは虹の中にいた。そのせいでしばらくぼくは、自分が目を覚ましたことに気付かなかった。ぼんやりと虹を眺めながら、一体いくつ虹を渡ってゆくのだろう?虹を渡り、この夢は何処に辿り着くのだろう?そんなことをとりとめもなく思っていると、何かが光にぶつかる音がした。 「パチッ」  その衝突によって小さな虹が生まれ、それはけれどすぐに消えた。 「パチッ」  その音ではじめてぼくは、自分が目覚めていることに気付いた。  やっと、宇宙からただひとり切り離された自分に気付いた。ぼくは、ぼくの姿を見た。ぼくは『丸い玉』だった。辺りを見回しても、しーんと静まり返っていた。ぼく以外誰もいない。ぼく以外に存在するのは、オーロラと虹だけ。  どこからか、歌が聴こえた気がした。 『ロンリネス……』  不意に孤独が、ぼくを襲った(それは宇宙の中に、孤独が生まれた瞬間でもあった)。言いようのないさびしさがこみ上げ、ぼくはいたたまれなくなった。ぼくは、途方に暮れた。  歌は続いた。 『一晩、冬の海を見ていようと思ったのに、海がおかえり、といった。もう電車がなくなるから、ね』  さらに歌は、続いた。 『ふとさびしいと思ったら、もうしおざいのきこえない場所まで、来ていた』 「パチッ」  また何かが光にぶつかる音がして、小さな虹が生まれた。 「おはよう」  何処からともなく声がした、テレパシーを通して。それは懐かしい声だった。懐かしい。あれ!  もしかしてきみ?今のは、きみの声?  ぼくはきみを捜して、オーロラと虹だけの宇宙の中をキョロキョロ見回した。  光との衝突によって生まれた小さな虹が消え、そこにきみがいた。  どうやらさっきから光と衝突していたのは、きみだったらしい。ぼくはすぐにきみのそばに駆け寄り話し掛けたかったけれど、孤独を引きずったぼくの心は重く、ぼくは静止し沈黙したままだった。  きみもまたぼくと同様、丸い玉だった。けれどぼくよりも小さい。 「プロトン」  きみは、ぼくに向かってつぶやいた。 「プロトン?」  ぼくは言葉の意味が分からず、低く小さな声できみの言葉を繰り返した。 「そう。それがあなた」  きみはぼくの声に嬉しそうに答えた。ぼくたちは、テレパシーを通して会話した。 「ぼく?じゃ、きみは?」 「エレクトロン」 「エレクトロン?」  それからきみは、ぼくたちの再会の喜びを語った。 「また会えて、よかった。だって光だった時、さよならも言えなかった」 「……」 「でも、どんな姿形でも構わない。こうして、あなたと会えるなら」 「……」  けれど相変わらず孤独の殻に閉じこもったぼくは、きみとの再会を素直に喜べなかった。沈黙を続けるぼくに、きみも黙った。ぼくたちは沈黙した。  しばらくしてぼくは、ぶっきらぼうに問い掛けた。 「何の意味があるの?」 「意味?」  きみは驚いて、問い返した。 「そう。つまり、ぼくたちに」 「わたしたちに?」 「だから」  ぼくは怒ったように言葉を切り、また黙った。言葉に詰まって、いい言葉が見つからなくて。ただ悪戯にきみを苦しめるだけのような気がして。きみはやさしく、ぼくの言葉を待った。  しばらくしてぼくはまた問い掛けた、今度は少し冷静に。 「だから、きみがエレクトロンでぼくがプロトンだとか、その前は光だったとか、宇宙の一片として無と闘ったとか、そういうことに、一体何の意味があるというのだろう?」 「意味」 「そうさ。だってぼくたち、宇宙ができる前、ぼくたちはひとつだった」 「わたしたちはひとつだった。確かにそうね」 「なのに今ぼくたちは引き離され、孤独に苛まれている」 「孤独に、苛まれている……」  きみは哀しげに、ぼくの言葉をなぞった。 「そうじゃない?そうだよね?確かに灰となって宇宙と一体化している時は、そんな感情はなかった。けれど再び目覚めると、そこはただしーんと静かなオーロラと虹だけの世界。さっききみの声を聴くまで、ぼくはずっとひとりぼっちだった」 「そうね、確かにあなたは孤独だった。あなたは孤独なプロトン」  きみは小さく零した。 「どうしてこんな思いをしてまで、ぼくたちは存在しなければいけないのだろう?こんなことなら」 「こんなことなら?」  きみは息をのみ、ぼくの言葉を待った。ぼくはゆっくりと呟いた、独り言のように。 「無のままでいた方が、良かった」  ドキドキ、どきどき  その時、きみの鼓動が聴こえた気がした。  きみは恐る恐る、ぼくへと近付いた。ゆっくりゆっくりと。  きみが移動するたび、きみは光と衝突し小さな虹が生まれては消えた。きみが光と衝突するたび、小さな虹が生まれては消え、生まれては消え……。 『この夜のどこかにきみがいるなら、確かにこの夜のどこかの場所で、今もきみがぼくを待っていてくれるなら』  その歌は、ふいに何処からか聴こえて来た。 「何?」 「分からない」 「何処から?」 「虹」 「え?」 「虹が、歌っているの」 「虹が?」  きみはぼくの前で立ち止まり、ぼくたちは虹の歌を聴いた。 『そして今はまだ、ぼくが生きていることさえ知らず、ただぼんやりと遠い星を見上げ、ひとりの夜を抱きしめているのなら』  しばらくきみはぼくの前で、ぼくといっしょに虹の歌を聴いていた。  それからきみは、ゆっくりと踊り出した。ぼくの周りを回るように。 『いくせんの夜を越え、いく数千の夜のやみの扉をひとつ、またひとつ、諦めることなくたたいてゆくよ』  虹の歌に合わせて、きみは踊り続けた。疲れを知らない子どものように。  ドキドキ、どきどき  きみの鼓動とともに、  ドキドキ、どきどき  ぼくの鼓動を確かめるように。 『銀河の星のひとつひとつを旅するように、たとえ無限のとしつきを費やしても、ぼくはきみを見つけ出すから』  ドキドキ、どきどき  無のままでいた方が、  ドキドキ、どきどき  良かった、なんて言わないで  ドキドキ、どきどき  わたしたち、ほら、こうして  ドキドキ、どきどき  またひとつに、なれるから……。 『もしもきみを見つけ出せなかったら、銀河は永遠のやみへと落ちてしまうから……』 『今はこの夜のさびしさを、ひとつまたひとつ、ぼくの孤独な胸へと刻みつけよう』  きみはぼくへと手を差し伸べた、恐る恐る……。 『遠い時の彼方から押し寄せる銀河の波のしおざいが、しずかにぼくたちの心へと、降り積もってゆくように』  ぼくは、きみの手を握り返した。 『降り積もり、やがていつか必ず、ふたりは巡り会えるように……』  歌は終わり、ぼくたちを隠していた虹は消えた。  ぼくたちはひとつになり『アトム』と呼ばれた。
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