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ホールに沈黙がはりつめる。
次の瞬間、観衆はさざ波のようにざわめきだした。その言葉はなぜか、はっきりとルシェリーの耳に届いた。
「花嫁が転んだぞ」
「なんて無様な格好なの」
「フェアルリースの王女ですって…」
「“聖なる花嫁サマ”はどんどん質が悪くなるわねえ」
人々の嘲笑に、ルシェリーは緋色の絨毯に両手をついたまま瞳を潤ませた。
「いつまでそうしているつもりだ」
男の声が落ちる。見上げると、冷ややかな眼差しがつき放すように佇んでいた。
好奇に満ちた観衆の視線。誹謗中傷の囁きから顔をそむけるようにうつむくと、絨毯にポタポタと涙が落ちた。
「……お兄さまぁ…」
すがりたい兄はここにはいない。それでも呼ばずにはいられなかった。
頭上で男のため息が聞こえた。何か言われるんだと身をすくめたルシェリーの体は、揺れて宙に浮いた。崩れ落ちるような浮遊感に手を伸ばし、触れたものにすがりつく。
「おまえは満足に歩くこともできないのか」
顔をあげると、間近に見つめる男の眼差しがあった。そこでようやく、すがりつく手が男の首に回されていることに気づいた。
男は黒衣を翻して歩き始めた。
「あの方が花嫁様を抱きあげられたぞ!」
「ようやく神の餌に手をつけられるのか」
「花嫁サマが転んで泣いておられたのは、あの方の気を引くための小芝居ですわ。なんてあさましいのでしょう」
あちらこちらで囁きとざわめきが波打ちながら、再び、拍手と歓声が沸き起こった。
「空々しい。これが七日七晩続くとは、まさに茶番だな」
降りそそぐ花びらがむせ返るほどの芳香を放つ中、男は呟いた。
頭につもった花びらが、カサ…と音をたてて滑り落ちる。ルシェリーは身じろぎひとつせず、壇上へと運ばれていく我が身の置き場のなさに戸惑った。
男は跳躍して壇上へ登ると、観衆を見渡し高らかに告げた。
「妖精王シェイムとその眷属たちよ、花嫁は受け取った。今宵は盛大に祝ってくれ」
妖精王…?
浮かんだ疑問は、ワッ!と沸き立つ歓声と、悲鳴にも似た女たちの甲高い声にかき消される。
「では我が眷属たちよ、一角の君と“聖なる花嫁”を祝い乾杯しようではないか!」
妖精王シェイムの発声と共に、
《乾杯!!!!》
一斉に重なり合うグラスの音でシャンデリアが揺らいだ。ルシェリーは耳をふさいだ。
男はルシェリーを抱きかかえたまま玉座に腰をおろすと、膝の上にルシェリーをのせたまま足を組んだ。その傾斜によってルシェリーは男の体にその身を押しつけられる体勢になり、ふと首をかしげた。
…ん?
目の前に、玉座に並ぶようにもう一つ、椅子が見える。もしかするとあれは花嫁席?
「……私の席、あっち?」
指をさして確認するが、
「口を閉じておけと言ったはずだ」
表情ひとつ変えずに男は、運ばれてきたグラスを手にした。
兄や父の膝の上に乗せられることはよくあったけれど、さすがに兄も父も、大勢の家臣や民衆の前でルシェリーを膝にのせることはなかった。
これって、転ぶより恥ずかしいことじゃないかしら?それにまた、気を引くための小芝居だって言われちゃう。
「私、あっちに座るわ」
そう言ってルシェリーは男の上から降りようとしたけれど、長いドレスの裾が体に巻きつき、それをかき分けて探しても自分の足を見つけることができなかった。
「おとなしくしていろ」
「でも…」
「これはこれは花嫁殿、何か不都合でもございますか?」
ジタバタするルシェリーを目にとめると、スラリと背の高い男が歩み出た。床につくほど長い黒髪を艶めかせながら、男は胸に手をあてると優雅に一礼する。
ルシェリーが首をかしげると、
「これは失礼。我が名は妖精王シェイム。麗しき花嫁よ、以後お見知りおきを」
妖精王シェイムは黒曜石のような瞳を細めると、友好的にも見える笑顔を浮かべた。
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