7. あふれかえるもの

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7. あふれかえるもの

 ライナスからその話を聞いた日の晩。  ディートハルトは宿舎にある自分の部屋へふらふらと戻るなり、崩れ落ちるように床に座り込んだまま、ぼんやりと壁を見つめていた。  他の師団長たちからの食事の誘いも断った。  こういうときはむしろ一人にならない方が良かったのかもしれないが、頭も身体もまるで別の何かに乗っ取られたように思い通りに動かなくて、気づいたら帰ってきていた。  しん、と静まり返った部屋の中で、恐れていたことが現実になった絶望感が、ひたひたと押し寄せてくる。  いずれこの日が来ると自分でもわかっていただろうと嘲笑う声が、頭の中でこだました。  こんなことになるのなら、いっそ自分の想いを打ち明けていれば良かったのか。  だが、想像しかけて、ライナスの拒絶の表情を思っただけで、心臓が凍りつくようだった。  この国は、同性間の恋愛に対してそこまで厳しくもないが、寛容なわけでもない。  制度的には同性婚も認められているとはいえ、首都にあってさえ一般市民の間ではまだまだ偏見も強かった。  男ばかりの騎士団では、猥談と混ざってそういった話題もしばしば酒の肴にのぼったが、そんなときのライナスの反応はごくごく一般的な、つまりは「他所でやっていただく分には構わないが、自分に被害が及ぶのは勘弁してほしい」という態度だった。  望みなど、最初からない。  叶うことのない想いを、ディートハルトは心の奥底に隠し、良き友として今日まで振る舞ってきた。  始まる前から、終わっていたのだ。  胸がつぶれるようだった。  容赦無くやってくる明日からの毎日を、自分はどう過ごしていけばいい。  ライナスとは、一体どのような距離感でいればいいというのか。  お前には、一番に報告したかったんだと、親友は言った。もう今頃は団内で噂になっていることだろう。  すれ違う連中全員から祝福され冷やかされて照れ笑いをするライナスを、自分は今までと同じように、そばで笑って見ていられるだろうか。  考えるほどに、ディートハルトの心に浮かぶのは、もういっそ消えてなくなりたいという、胸の奥底から絞り出されるような願いだった。  そして、どうせならライナスも共に、この手で——そこまで考えて、ディートハルトはハッと目を見開いた。 「俺は、今、何を……」  月明かりの差す暗闇の中で、ディートハルトは頬を伝い落ちる涙を拭いもせず、ただただ呆然と座り込んでいた。  もう全てを捨て去って、誰も知らないところへ行こう。そう、思った。  まだ30も半ばというディートハルトの年齢で、中央騎士団の師団長という肩書きを持つものはかなり珍しい。  肩書きと給金目当てに寄ってくる女も後を絶たず、同輩たちからやっかみ半分でからかわれることもしばしばだった。  世間から見れば、将来有望、これからというときなのだろう。  だが、ディートハルトにとっては、全てがライナスのためでしかなかったのだから、今、その肩書きも、給金も、何もかもがなんの意味も成さなかった。  ライナス以外の人間に、ディートハルトは全く興味がない。  自分のことは、同性愛者ではなく、ライナスという一人の人間しか愛せない、欠陥人間なのだと思っている。  ライナスのいない世界になど、何ひとつ未練を感じなかった。  一師団長がいきなり失踪したとなれば、預かっている師団はもちろん、騎士団全体が混乱に陥るのは間違いない。  今までのディートハルトであれば、そんな無責任な行動を取ろうと考えることさえなかっただろうが、今や何もかも、全てがどうでも良かった。  一度決断したら、あとは早かった。  荷物をまとめ、大剣は目立ちすぎるので護身用に肌身離さず持っている短剣だけを帯びて、ひっそりと夜の闇に紛れて街を後にする。  もともと施設育ちで身寄りもなく、騎士団から与えられていた宿舎にも最低限のものしか置いていなかったディートハルトにとって、存在の痕跡を消すことはそう難しいことではなかった。  悪魔の森と呼ばれて近隣の住民が寄り付かないという、その森のことを知ったのは、首都からひたすら遠くへと放浪の旅を始めて1ヶ月が経とうとしていた頃だった。  髭も髪の毛も伸び放題で、傍目にはもう誰もこれがかつての中央騎士団第5師団長だとは気づかないだろうと、ディートハルトは半ば自嘲気味に思っていた。 「お前さん、この辺じゃ見ない顔だね」  ふらりと立ち寄った食堂で、配膳をしていた女将らしき恰幅の良い女性に声をかけられ、顔を上げた。  顔を覚えられないよう、できるだけ街中の混雑していそうな店を選んだつもりだったが、こんな田舎町ではそれも限度がある。 「旅のお人かい?」  ディートハルトはどう答えようか、返答に迷って視線を泳がせたが、構わず女将は勝手に喋り続けた。  どうやら格好の話し相手を見つけたと思われたようで、最近は景気がどうだの、どこの家の子供がいい歳して定職につかずフラフラしているだのと堰を切ったようにまくし立てる女将に、自分のことを根掘り葉掘り聞かれるのでなくて良かった、とディートハルトは胸を撫でおろす。  その中で、気になる言葉がディートハルトの耳に引っかかった。 「悪魔の森?」 「そうさね。ここ数年はそんな馬鹿者もいなくなって平和だけどねえ、前はよそ者が面白半分に森へ入って、とんでもない目にあったなんて話はよく聞いたよ。お前さんもこの先どこへ行くのか知らないけど、森を通って近道をしようなんて考えは捨てるんだね」  この街の南方に広がるその森は一度入ったが最後、悪魔に魅入られて取り殺される。そう女将は話していた。  実際はおそらく森に住む盗賊か、ゴロツキの仕業だろうとディートハルトは推測した。  悪魔だろうがゴロツキだろうが、襲ってくるなら倒すまでだ。  そのくらいの腕はまだあるつもりだった。  放っておいたら店じまいまで続きそうな女将の話を適当に切り上げ、まだ日が高いうちに、ディートハルトは森を目指すことにした。  誰も寄り付かないならば、むしろ好都合だとディートハルトは思った。  どこへ行っても、ライナスに背格好が似た人影を見ると、本人がいるわけがないのに、一瞬心臓が止まりそうになる。  首都を離れれば、誰も自分を知らない土地へ行けばいいだろうと思っていたのは甘かったと、すぐに思い知った。  夜には頻繁に悪夢にうなされた。ライナスをこの手にかける夢だ。  自分の叫び声で目を覚ますことも少なくなく、狂人を疑われ宿を追い出されては街を移動することの繰り返しに、ディートハルトはもう疲れ果てていた。  ——まあ、まさか本当に悪魔に出会うとはな……  初めて「彼」を見た時、すぐに人ではない、とわかったものの、自分でも驚くほど、そのことに動揺もしなければ恐怖も感じなかった。  死んだも同然の毎日に、今更何が加わっても大したことではなかったのだ。  頭の両脇には黒い角を生やし、人間には存在しない月色の瞳と作り物のように恐ろしく整った容姿、そしてこの辺りの街にはいそうもない、露出の多い派手な服装。  だが、それらを除けば、「彼」はごく普通の、思春期真っ只中の青年にしか見えなかった。  見た目と年齢が一致してはいない可能性も考えて、ディートハルトは「彼」に対して慎重に接したが、時を重ねても自分に対する「彼」の態度は初見の印象を全く裏切らない。  それどころか、手に入らないものに駄々をこねるさまには、むしろ見た目よりも幼い印象を受けた。  メイリール、と名乗った「彼」が一体自分の何が気に入ったのかわからないが、どうやら懐かれたらしいとわかる頃には、身につけた妖艶さよりも、そこから垣間見える素直さの方がきっと本来の姿なのだろうと、ディートハルトはなんとなく感じ取っていた。  ころころと変わる表情は見ていて飽きなくて、最初の晩に自分に色目を使ってきた時よりもよほど魅力的だった。  もう誰もいらない、もう誰ともかかわらない、と決めていたはずの心が、揺るがされる。  誰かを愛して、失うのはもう二度とごめんだった。  ——そんなことも、知らないで……  メイリールに、いつしかライナスを重ねて見ている自分に、ディートハルトは気づいていた。  あらゆることに興味津々で目を輝かせ、笑い、時にふて腐れながらも自分を信じきってついてくるメイリールに、ディートハルトの心はゆっくりと、再び生へ向かって回復し始めていた。  相手は悪魔なのだから、帰る世界もあり、自分がいなくても生きていけるということを、うっかり忘れそうになる。  見た目の年齢も背格好も全く違うのに、どこかその純真さ、屈託のない笑顔がかつて自分の焦がれた相手と重なって見えるたびに、言いようの無い重たい感情がこみ上げた。  仮に、もしメイリールが全てを知った上でそう望んでくれたとしても、この子を身代わりにしていいわけがない。  そのうち思い通りにならない自分に飽きて、元の世界に戻ってくれればいいと、そう、願っていた。それなのに。  ——花束、なんて。ガラにもないくせに。  メイリールなりに、必死に考えたのだろうと思うと、可笑しくて、笑いと一緒に、涙が零れた。  一度溢れ出した涙は、後から後からとめどなく流れ落ちる。  涙なんか、あの夜に枯れ尽きたと思っていたのに。  何時間もそうして、ゆっくりと動いていく月を見上げて、封じていた思い出も感情も全部、あふれかえるにまかせた。  空が白み始める頃には、涙と一緒に、胸につかえていたものも流れ出ていったような、そんな気がした。
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