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1. 初恋は実らない?
「うわ、サイアク……」
土砂降りの雨を見て、メイリールはげんなりとした声でつぶやいた。
人間界には天候があることを、すっかり忘れていた。
夏の雨は特に不快なこと極まりなく、肩に乗った守護烏のルークは、さっきから黙り込んだまま一言も発していない。
その無言の圧が、自分を責めているような気がして、メイリールはますます苛立った。
——チクショー、ふんだりけったりだ……!
雨だからといって、回れ右して魔界に戻ることもできない。
その原因は、メイリール自身にもあると言えなくもなかったのだが、メイリールはそれに気付かぬふりを決め込んでいた。
事の起こりは2週間ほど前、メイリールが行きつけのクラブでとある男を引っかけたことにある。
単に顔と体つきが好みで、体の相性もまあ悪くなかった。ただそれだけ。
メイリールにとっては、それ以上でもそれ以下でもない、気まぐれに取り替える「お友達」の一人に過ぎなかったのだが、今回はどうにも相手が悪かった。
「ちょっと何回か寝たくらいで、彼氏ヅラしないでくれる?」
男のあまりの鬱陶しさに我慢できず、思わず口をついて出た。
男がサッと顔色を変えたのが分かった。
まずい、と思った次の瞬間には、メイリールは逆上した男にのし掛かられて、布のようなもので口を塞がれ、そこで意識はふっつりと途切れた。
目が覚めた時は、どこだかわからない暗い部屋の中だった。
傾斜した天井に明かり取りの窓がひとつあるだけの、埃っぽい場所だ。
何かで拘束されているのか、背中に回された手が自由にならない。
簡易的な魔力封じが施されているらしく、壁や天井をぶち壊すほどの力は使えそうになかった。
まずい。どう考えてもまずい。ルークは? ルークはどこにいるだろう。
魔力反応は感じるから、近くにいるのは確かだ。
そこまで思った時、はめ殺しになっていて開かないはずの部屋の窓に、いきなり何か硬いものがぶつかる音がした。
ついで、ガラスがパリンと音を立てて割れる。
カラカラと転がりこんできたものを見ると、どうやら石がぶつかったようだ。
割れたところから、見慣れた黒いくちばしがひょいと覗く。
「ルーク……!」
小さく叫んでから、メイリールはハッと口を閉じた。
今の音で、男が気づいたかもしれない。
しばらく息をひそめ、誰かが近づいてくる気配がないか、辺りを探った。
だが、幸いにも近くには誰の気配も感じられない。
チャンスは今しかなかった。
手を拘束していたのは高度な魔具などではなく、作りとしては単純なものだったから、ルークに手伝って貰えばすぐに抜けることができた。
あとは飛ぶだけだ。
割れた窓ガラスの縁に注意しながら慎重に窓を抜け、メイリールはさっさと逃げ出した。
男が追ってきていないことを確認しつつ、足早に住宅街から大通りへと抜けたまではいいが、そこからどちらへ向かおうか、メイリールは考えあぐねていた。
自分の住まいは当然男に知られている。
悩んだ末、ため息をひとつついて、メイリールは行き慣れた旧友の家を目指すことにした。
「お前ねえ……ほんと懲りねえな」
「だって、ヴィンスくらいしかこういう時、頼れるやついねえんだもん」
メイリールの姿を確認するとすぐにドアを開けてくれたこの好男子は、名をヴィンスという。
メイリールとは幼稚舎以来の付き合いであり、メイリールが素の自分をさらけ出せる、数少ない本当の意味での友人の一人だった。
メイリールがどうしてこんなただれた生活を送ることになったのか、メイリール自身の口から話したことはなかったが、おそらくおおよそのところを察しているだろうただ一人の魔族でもあった。
メイリールは、魔界の王たるルシファーに連なる一族の嫡男であり、いわゆる王族の一員である。
幼い頃は、親どうし付き合いのある家の子供たちと遊ばされたが、メイリールは同じ年頃の魔族たちとはどうしてかうまく打ち解けることができなかった。
代わりに、従兄であるルーヴストリヒトにだけやたらと懐き、暇さえあればルーヴ、ルーヴと後を追いかけ回していた。
メイリールの記憶の中のルーヴストリヒトは、少々変わり者ではあったが、いつも優しかった。
同年代の男の魔族たちの中では標準より控えめな大きさの自分の角を気にしていたメイリールに、ルーヴストリヒトは、俺は好きだよ、と言ってくれた。
幼いメイリールが癇癪を起こして家出をしたとき、必死で探して連れ帰ってくれたのも、ルーヴストリヒトだった。
家を飛び出したのはいいものの、帰るタイミングを見失い、だんだんと暗くなってくる空に心細くなって泣いていたメイリールを見つけたときのルーヴストリヒトの、ホッとしたような泣き笑いの表情は、今でも忘れられない。
「メイの大好きなお兄ちゃん」だったルーヴストリヒトは、やがて物心ついたメイリールの、初恋の相手となった。
幼稚舎を卒業し、中等科、そして高等科へと進学するにつれ、目を見張るような美しい青年に成長したメイリールは、学内の男子を上から下まで軒並み虜にし、学外からも年頃の女性たちがメイリールをひと目見ようと押し寄せた。
それでもそうした者たちには目もくれず、メイリールはルーヴストリヒト一筋だった。
どうしたって聞こえてくる男どうしの猥談も、知識として得ておくにとどめ、脳内で全てルーヴストリヒト相手に変換した。
もちろん、成長するにつれて、ルーヴストリヒトの社交界での立ち位置、彼を取り巻く高位の魔族の男女たちの駆け引きを含んだあれこれも、当然メイリールの耳に入って来るようになる。
この頃にはさすがにメイリールもルーヴストリヒトの体面を考え、表立って口にすることはなくなったが、心の中ではルーヴストリヒトの伴侶になるのは自分以外あり得ないと頑なに信じ続けていた。
社交界で名だたる魅力的な魔族たちの縁組の申し入れを、ルーヴストリヒトがすげなく断ったという噂を聞くたびに、やはり自分が成人するのを待ってくれているのだと、メイリールは心の中で確信を深めていた。
そして、気の遠くなるような辛抱の日々を乗り越え、高等科を卒業したメイリールは、待ち焦がれた成人魔族となる日を迎えた。
メイリールは、お祝いのために訪問してくれたルーヴストリヒトを自室に招き、この日のために磨き抜いたありったけの色気と誘い文句で誘惑した。
このときメイリールは、ルーヴストリヒトが自分に応えて優しく、そして猛々しく契りを交わしてくれるものと信じきっていた。
だから、ルーヴストリヒトが困った笑顔を浮かべ、メイリールの頭にその大きな手のひらをぽんと乗せて考えあぐねたように黙ってしまったとき、メイリールはうまく状況が飲み込めなくて、ぼんやりと見つめることしかできなかった。
部屋の中に、静寂が立ち込める。
「メイ……メイリール」
ルーヴストリヒトが妙に改まった口調で、メイリールの名をいつもの愛称ではなく、正式名で口にした。
しん、と静まり返った部屋に、ルーヴストリヒトのベルベットのような声が重く響く。
何か、望ましくないことを言おうとしているのだとメイリールは直感的に悟り、いやいやをするように、微かに首を横に振った。
メイリールの弱々しい抵抗もむなしく、ルーヴストリヒトは続けた。
「メイリールの気持ちは……すごく嬉しい。これは、本当だよ。でも、」
その続きを聞くのが恐ろしくて、メイリールは反射的に目を瞑り、こくりと喉を鳴らした。
「……こういうことは、もっと大切なひとが現れたときのために、とっておくんだ」
このあと、メイリールはなんで、とか、どうして、とか、ほとんど意味もなさないような言葉を口にしたような気はするが、記憶はおぼろげだ。
ただルーヴストリヒトがひどく遠くに感じられたことだけが、なぜか鮮明に焼き付いている。
メイリールが何を言っても、ルーヴストリヒトは、メイリールにはきっと俺より、もっとずっと大切な人が現れる、その時が来たら分かるんだよ、と繰り返すだけだった。
言われたことに頭が追いつかなくて、ただとっても悲しくてつらいことを言われたことだけは分かって、メイリールは大きな月色の瞳から、壊れてしまったように涙を流した。
それからいく日もの間、メイリールは体調が悪いと言って部屋に閉じこもり、誰も寄せ付けなかった。
身体中の水分が干上がるかと思うほど泣いて、泣いて、泣き疲れては眠り、目が覚めてはまた涙を流した。
時々、思い出したように部屋の扉の外にそっと置かれていた食事に手をつけたが、何を口に入れても涙の味しかしなかった。
いつもは片時もそばを離れない守護烏のルークも、主の張り裂けんばかりの悲しみを前にしてどうすることもできず、部屋の片隅にうずくまって目を瞑っていた。
次にメイリールが人前に姿を現したとき、もはやそこに以前のメイリールの面影はほとんどなかった。
派手なメイクに、身体の線も露わな服。目にはどこか凄みのある挑発的な笑みをたたえ、有無を言わさぬ威圧のオーラを誰彼構わず放った。
その変わりように、以前わずかに付き合いのあった魔族たちは皆、揃って疎遠になった。
たった一人、旧友のヴィンスだけが、人が変わったように荒んだ生活をし始めたメイリールに対して、以前と変わらぬ態度で接した。
社交界に出ることもせず、夜な夜な繁華街に繰り出しては頻繁に恋人をとっかえひっかえするメイリールを、家族は半ば呆れ、半ば黙認する形で許していた。
自由な生き方をしていたのはメイリールに始まったことではなかったし、そもそも12人も兄弟がいれば、全員に目が届くわけもない。
魔界の法に触れることさえしなければ、基本は放任するのが家の方針だった。
そんなわけで、誰もメイリールに干渉するものはいなかった。
ただひとり、ルーヴストリヒトその人を除いては。
メイリールの変貌ぶりに、ルーヴストリヒトは心を痛めている様子で、会うたびにメイリールの行動をたしなめた。
「じゃあ、ルーヴが俺の相手をしてよ。そしたら、俺、もうどこにも行かないよ」
まるで保護者のように小言を言うルーヴストリヒトに、メイリールは決まってこう言った。
そうすれば、ルーヴストリヒトが黙ることを、メイリールは分かっていた。
だが、ルーヴストリヒトが黙り込んでしまうことが、メイリールの心のどこかに、もう忘れたはずの痛みを鈍く引き起こした。
メイリールの元に、耳を疑うような噂が入ってきたのは、そんなある日のことだった。
「あの難攻不落と言われたルシファーの息子が、天使に入れ込んでいるらしい」と。
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