老嬢の夢

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「おめでとうございます!」  役場の人間が直接届けにきた。郵便ではない手紙の到着。家中が凍りついた。 「ありがとう……ございます」  それを受け取ったキヨシは消え入りそうな声でお礼を言いながら、その職員に深々と頭をさげた。  緊急召集令状。赤紙と呼ばれる手紙だった。この手紙の意味に、ハルもハルの父親も気づいていた。 「よかったな。おめでとう」  彼女の父の言葉が心からのものだったのかは、娘のハルにはわからない。だが、彼女の本音としては、とても「おめでとう」という気持ちには至らなかった。  その数日後、彼は『国の仕事』ではなく『戦争』に向かった。玄関先でハルはキヨシに言った。 「どうか、ご無事で」 「大丈夫。後方支援だし、最前線に立つことはないよ。数ヶ月の辛抱だ。すべてが終われば帰ってこられる」  近隣の住民が野次馬のように集まった。祝辞を述べるもの、拍手をするもの、指笛を鳴らすもの、そして遠くの陰からヒソヒソと陰湿な話をしているおばさん連中もいるが、それらの他人を気にしていられるほど彼女にはよゆうがなかった。とつぜんリアリティを持ち始めた戦争という単語はとてつもなくおそろしく彼女の心を支配する。 「もし、万が一のことがあったら……」  ハルの目にはすでに涙がたまっていた。それがこぼれる直前に、キヨシは右手の親指で彼女の目をぬぐった。 「ぼくの心はここにあり続ける」  そう言ってキラキラの笑顔を向ける。そして、ハルの父親に向きなおる。 「お世話になりました。行ってまいります」  ギャラリーの歓声がさらに大きくなる。頭上の太陽はどこまでも高く、乾いた冬空に明るい色を見せていた。  大丈夫。こんなになにもないんだもん。  ハルはそう自分の心に言い聞かせた。リアリティを持った戦争という言葉とは反対に、それまでと変わらないまわりのようすが、彼女の不安に盲目のフィルターをかけてくれた。
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