老嬢の夢

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 その日から、ハルの日常には新しい習慣がくわわった。郵便物のチェック。最初のうちは死亡者のなかに彼の名前がないかハラハラしながら確認していた。死亡通知は今日もない、今日も平気だ、届かない。そのたびに彼女は心臓をドキドキさせていた。この毎日の確認作業は何度やっても慣れるものではなかった。  そんな日々を送るなかで、夏になり戦争が終わったことが告げられる。彼の死亡の通知はきてない。だが、戦争が終わって一日たっても二日たっても、彼は帰ってこなかった。死亡者の確認をするが、そもそも誰が死んで誰が生きているのかすら国が把握していない状況だった。彼の消息はわからなかった。死んだかもしれないし、死んでいないかもしれない。確認する方法は、ただひとつ。彼が、この家に帰ってくること。その日をひたすら待った。 「新しい縁談を持ってきたんだ」  ハルの父親の言葉を無視したのは、これで何度目だろうか。次の誕生日でハルは二十五歳になる。 「いいかげんにしろ! その年齢になって結婚もしないで、恥ずかしいと思わないのか!」  父が腕を振りかぶる。そんな父をハルがにらむ。 「ぐっ……」  奥歯を噛み締め、父が腕をおろした。 「勝手にしろ!」  それ以来、年齢的にもハルに縁談の話はこなくなった。 「あれから、六十四年か」  ハルは力なくつぶやいた。戦争に行ったきり帰ってこないキヨシを待ち、独身をつらぬいた。生活のために他の男に抱かれることはあったが、心は決して許すことはしなかった。身体の純潔を守り切れるほど世間は彼女にやさしくなかったが、心の純潔を彼女はここまで守り続けた。それだけが今年八十九歳になるハルの存在証明だった。 「だけど……」  そろそろ身体も限界だ。精神力でなんとかもっているけれど、そこに希望がないことはすでに彼女も気づいている。ただ現実を直視しないために、自分の存在証明を盾にして心にフィルターをかけているだけだ。  彼女は、あの日以来、泣かないと決めていた。涙を流しても、それをぬぐってくれる親指が近くにない。その状態で泣いてしまえば、涙はとまることを知らず心にかけた薄氷のフィルターを溶かしてしまう。 「でも……」  年老いたハルはポロリと弱音が口からもれる。ギシギシと床が鳴く。いつもの家鳴りだ。そう思った。しかし、その音には気配があった。心霊のうわささえあるオンボロアパートだから、本当にそういうたぐいのものがあらわれたのかもしれない。だが、この年齢になって今さら幽霊に怯えるほど、彼女もうぶではなかった。気のせいだと思い、目をきつくつぶる。ギシギシ、ギシギシ、その音は近づいてくる。目をつぶっていてもわかる。部屋の空気が揺れている。ギシギシという音が彼女の布団の横でとまった。
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