老嬢の夢

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「ふう、ふう……」  気配だけでなく息づかいまで感じられる。明らかに人だった。それも男性。幽霊でなければ、泥棒かなにかだろう。そういえば、玄関の鍵は壊れている。ここ数年、ちゃんと戸締りをした覚えがない。  ハルはパニックになりかけたが、頭の芯は冷静だった。彼女には今、ふたつの方向性の選択肢がある。ひとつは、目を開いて叫ぶこと。そして、ふたつめは、このまま寝た振りを続けて、この未知の人物が立ち去るのを待つということ。  彼女は即座にふたつめを選択した。たとえ叫んだとしても、自分ひとりしか住んでいないアパートで助けなどやってこない。そのうえ、相手がこんな老婆相手にひるむわけがないことも予想ができた。そうなった場合、最悪、彼女は暴行を受けることになるだろう。この年齢での怪我は命に直結する。生きる意味を見うしないかけているとはいえ、こんな最期は想定してない。彼女にとって不本意だった。それならば、彼女がとれる道はただひとつ。眠った振りを続け、この人物が立ち去るのを待つだけだ。  さいわい、彼女は枯葉のような老婆である。性的な暴行をくわえられることは考えにくい。この人物は、家のなかの金品を物色し、それらを持ち去るだけでいなくなる。どうせたいした貴重品などないのだ。その道が一番リスクが少ない。  お願い、早く盗んで。  彼女は心のなかで言う。  しかし、彼女の横にある気配は、そこから一歩も動かない。穏やかに「ふう、ふう」と呼吸をしているだけだ。そのまま、どれくらいの時間がたっただろうか。目を開けられないので、時間がわからない。静寂の音と謎の男の呼吸音だけが耳にうるさい。こうなったら、我慢くらべだ。彼女は意地になり固く目を閉じる。寝返りをよそおって、そっぽを向く。その沈黙をやぶったのは男の声だった。 「変わらないね」 「え?」  彼女は思わず反応してしまった。その声と、その台詞は今から七十年以上まえに聞いたものと同じだったからだ。
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