老嬢の夢

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老嬢の夢

 築七十年のアパートに彼女は住んでいた。その木造の建物は外壁が汚れ、どす黒く沈着し、建物を絡めとるようにナツヅタが縦横無尽に走っている。住宅というにはみすぼらしすぎて、ほとんど幽霊屋敷という様相だった。『ひなた荘』。建物をぐるりと囲むコンクリートのブロック塀に貼りつけられたプレートに冬の冷たい月の光が反射している。 「はあ……」  そのアパートの一室で、ハルはため息をついた。時刻は夜の九時。部屋は暗い。この時間に電灯をつけて生活することに彼女はいまだに抵抗がある。戦時中は夜間空襲を避けるために、夜は部屋の明かりを消した。そこから八十年近くたった今でも、彼女の時間はその時代で止まっていた。 「今日も帰ってこなかった」  彼女がこのオンボロアパートに住んでいるのには理由があった。戦争に行ったきり帰ってこない婚約者を待ち続けているのだ。 「ぼくの心はここにあり続ける」  一九四五年の年明けのころ、彼女の家に下宿していた婚約者のキヨシは当時十四歳だった彼女にそう言い残し戦地に向かった。志願兵として訓練を受けていたとはいえ、彼もまだ当時十九歳。まわりの空気感がそうさせていただけで、そこに「お国のために」という言葉の本当の意味はおろか、志願兵としての責務や戦争という社会のリアリティも感じていなかった。しかし、じっさいにはそんな彼が出撃しなければいけなくなるほど、事態は切迫していた。そのことに彼女をふくめた国民全員が疑念をいだいていたが、政府の流す情報を盲目的に信じたつもりになっていなければ心が壊れそうだった。それに、彼はハルに対し「戻ってくる」と約束をしてくれた。その言葉を盲目的に信じたつもりになっていなければ、彼女の心はとっくに壊れていただろう。  正確な情報があたえられないまま、夏に敗戦という形で戦争が終わり、キヨシが帰ってこないまま彼女たちには今までとは違う日常がおとずれた。今までと様相の違う身の危険、貧困による飢えと我慢、「勝つまでは」という目標がないぶん、その状態は永遠に続くような気がしていた。  そんなある日、ハルの父親が自宅を取り壊し、アパートを建てようと言い出した。人々が日々の食事で争いをくり返すなか、先見の明があったのだろうとのちに彼女は感じることになるのだが、そのときは母や妹たち同様、威厳のなくなった父の言葉に反対をした。  しかし、父は強行。結果としてその半年後、ハルの実家のあった場所に『ひなた荘』が建つことになる。時代は流れ、父が他界する間際に彼女がそのアパートの管理をまかされることになった。その後、何度も立ち退きを迫られた。耐震強度や安全基準を盾に国や自治体から取り壊しを迫られたことも一度や二度ではない。そのたびに彼女は言った。 「この家は、彼が帰ってくるまで壊しません」  そんな強情を張り続けて六十余年、気づけば独身のままその寿命も尽きそうな年齢になってしまった。
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