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その時、僕は小学五年生だった。
藪切峠には何があるの?と聞くと、大人達は皆バツが悪そうに顔をしかめるのだ。
『あんな所には行くもんじゃねえよ』
『どうして?』
『・・・熊が出るから』
また別の人に聞いた。
『・・・マムシが沢山いるから』
また別の人に。
『・・・電波が悪くて、道に迷ったら戻れなくなるから』
どうせ嘘をつくのなら、きちんと口裏を合わせておけばいいのに。ようするにあの場所には、子供に教えるのが憚られるような何かがあるんだろうな、と薄々感じた。
でもそんな事はどうでもよかった。虫好きの僕にとって重要なのは、その場所がどう見ても絶好のクワガタやカブトムシの狩場に見えるということだ。
「あの川の向こう岸まで行けたらなあ!」
当時十歳の僕は向こう岸にある藪切峠を見渡して、ため息混じりに言ったものだ。その斜面を深い緑で覆い尽くしているのは広葉樹、主にブナの古木だ。まだ他の子が訪れていない手つかずの原生林には、きっと見たこともない大物がいるに違いなかった。だけどそこへは簡単に行けない。
藪切峠へ行くには、 まずここから1キロ以上南にある橋を渡り、隣町からぐるっと山の反対側へ。 そこから頂上まで登って、また下りてくるという、信じられないほど遠回りのルートしかない。しかもそれは子供が自転車で行くなど絶対に不可能な、険しい急勾配の山道なのだ。
いや、実は厳密には別のルートが一つ存在した。しかも最短の。それは川の両岸をつなぐ赤い水管橋だった。水管橋だから人が渡るための橋ではない。そこには作業用の細い足場しかなく、もし足を踏み外せば、隙間から急流に転落する危険もある。だから普段は誰も入れないように、フェンスの扉に南京錠がかけられていたのだが・・・。
「あっ!鍵が開いている!!」
なぜかその朝は南京錠が開いた状態のままでぶら下がっていたのだ。単純に作業員がかけ忘れたのか、それとも掛かり方が不十分でバネが戻ってしまったのか・・・まあそんな事はどうでもいい。これは神が僕に与えてくれた、あの秘境を踏破する千載一遇のチャンスだ。これはもう行くしかない!
でも僕が行った後で、また扉に施錠されてしまったら困るな・・・。念のため僕は南京錠を足元の草陰にそっと隠した。そしていざ、フェンスの扉を開け、中に入ろうと一歩を踏み出した瞬間、誰かに後ろから突然声をかけられたのだった。
「橋を渡る気なの?」
「うおわあぁっ!?・・・って、なんだ花菜じゃないか。ビックリさせないでよ」
少しずつ彼女との仲が疎遠になり始めていたその頃は、もうお互いに遊びに誘い合うような親密な間柄でなくなっていた。でも狭い町だから、こんな風にどこかでバッタリ出会う事も珍しくなく、そんな時はまだ一緒に行動したりもしていた。
「橋の反対側もきっと同じように鍵がかけられているはずだわ。向こうには下りられないわよ。どうするの?」
「大丈夫だよ、あれ見て」
僕ははるか五十メートル先の対岸を指差して言った。その時の僕の視力は、まだ裸眼で1・5もあったのだ。
「向こうに着いたら足場から飛び降りればいいのさ。下までせいぜい1メートルくらいだから。そして少し上流方向に歩けば、だんだん擁壁と道路との高低差はなくなる。後はガードレールを乗り越えるだけだ。・・・言っておくけど花菜、止めても無駄だからな!」
「ううん、止めないわよ?」
花菜の瞳は好奇心でキラキラ輝いていた。話しながらも足首を回したり、屈伸したり、ピョンピョン跳ねたり。もしや準備運動のつもりだろうか。
「実は私も行ってみたかったのよ」
「・・・怖かったら、いつでも引き返していいんだからな?」
「あんたの方こそ、落っこちないでよ?」
そんなやりとりをしながら、やはり気の合う花菜と一緒にいるのが一番しっくりくるな、とつくづく実感していた。
足元のはるか下の方で水面がキラキラ光っていた。時おり谷間を吹き抜けていく横風でバランスを崩さぬように、手摺を握る手に思わず力が入る。そして僕達は未開の奥地を目指す探検家のような心持で、藪切峠への一歩を踏み出したのだった。
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