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街乗り仕様の非力な軽自動車は、急な登り坂にさしかかる度にエンジンを苦しげに叫ばせ、その音は長く尾を引いて山間に反響していた。
今、僕は花菜の運転で、かすかな記憶に残る藪切峠に向かっている。隣町から山づたいに向かうというその唯一のルートは、想像を遥かに上回る悪路だ。
ある場所では路面のあちこちに亀裂が走り、またある場所ではいつ落ちてきたかも知れぬ大岩が道の真ん中に鎮座していたりして。ここのような通行量の少ない道路は、管理もあまりされないという事だろうか。
遥か昔の昭和五十年代に造られたというトンネルにはちょっとホラーな雰囲気さえあった。真っ暗で、狭くて、 走っても走ってもなかなか出口が見えなくて・・・。
時おりフロントガラスにぴちょん、と水滴が落ちる。やがて前方に小さな光が見えて、それがだんだん大きく近付いてきて、やっと明るい光の中に脱出した時は、さすがの花菜の表情にも安堵の色が広がった。
「花菜、付き合わせてすまないな。それに運転までしてもらって」
彼女にとって平日の午前中は、本来は出勤前に家の用事を済ませたり農作業を手伝ったりするための貴重な時間にちがいなかった。
「まあ、どうせ何か理由があるんでしょ?あんたの気の済むまで付き合うわよ」
話しながらも、ハンドルを握る手からは緊張感を怠らなかった。
「僕、今までずっと、おかしなコンプレックスみたいな気持を抱えて生きてきたんだ。自分は農家を継ぐべきじゃない、そもそもそんな資格はない、みたいな。それで、その原因は何なのかずっと考えていた。そしたらさっき、ピンときたんだよ。藪切峠の出来事に何か関係があるんじゃないかって!」
「ふうん、そうなの・・・?でも変だわね。私が憶えている限り、あの時にそんなトラウマになるような事があったかしら?」
「それは僕にもわからない。でもその場所に行けば当時の思考が蘇って、謎を解くヒントに繋がるんじゃないかと思って」
「自分探しの旅という訳ね・・・。探し物、見つかるといいわね」
車は急カーブの九十九折を登りきり、山の頂上付近に出た。その時ほんの一瞬だけ、緑が途切れて、雄大な地形の全貌が木々の隙間からのぞく。その最も手前が僕達の暮らす小鹿沢町だ。そこには見慣れた果樹園や畑や商店街や古い家並・・・、日々の変わらぬ生活が確かに、慎ましやかに息づいていた。
「それにしても、山一つ越えるのがこんなに大変だなんて思わなかったわ!」
確かに普通の平坦な道と比べて、山道を走行するのは遥かに難しくて危険も多い。ペーパードライバーの僕ではとても無理だったろう。 彼女にはもう感謝するしかなかった。
あとは長いなだらかな坂をぐるっと下りれば目的地に着くはずだ。今日まで僕の中で、その存在すら忘れ去られ、あの日から一度も訪れることのなかった藪切峠。現在はどうなっているのだろうか。
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