記憶を辿って

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 ・・・だんだん思い出してきた。そうだ、確かに僕は花菜と一緒にあの場所にいた。まだ他の子達は誰も来たことのない陸の孤島。そこで起こった事を一つひとつ思い返してみよう。  ムッとするような草いきれと、頭にガンガン響く蝉しぐれと、陽炎に霞む遠くの景色。間違いなく今日も暑くなりそうな午前だった。 「うわあ、すごい木だね!」  ブナの大木が、群生する山の斜面から明るい道路側に向かって、 並んで身を乗り出してきていた。重さで地盤が崩れたりはしないのだろうか。こんな大きな木々が一斉に倒れてきたら、ちょっと怖いな。 「見て。道のあちこちでドングリから木が生えちゃってるわ!」 「コンクリやアスファルトの隙間にしっかり根付いてるね。これは簡単に引っこ抜けないから厄介なんだ」  放っておけば、成長の早いこの木はすぐに道路や擁壁に亀裂を生じさせ、破壊してしまうだろう。そうやって自然のテリトリーを奪還しようとしている。普段、身近にある飼い慣らされた果樹や庭木と違って、野生の植物にはこんな獰猛な一面もあるのだ。  その時、どこからともなく飛来した鮮やかな紫の蝶が、羽ばたく度に光を反射しながら頭上すれすれを追い越していった。 「あっ、オオムラサキだ!」  生きた宝石とも称えられる日本の国蝶。めったに出会えないその高貴な美しさに導かれて、思わず後をついて歩いていた。やがて蝶はブナ林の中の一本の幹にとまる。  その木は幹から甘い樹液が流れ出る蜜場だった。その濡れて黒く光っている樹皮にはいろいろな昆虫が集まってきている。 カナブン、スズメバチ、ヒカゲチョウ、タテハチョウ・・・、 「あっ、カブトムシがいる!コクワガタも二匹!すごいぞ、やっぱりこの場所は誰も捕りに来ない穴場なんだ!」  この辺りの木を片っ端から思いきり揺さぶっていけば、枝から大物のクワガタムシがどさどさ落ちてきそうな気がする。でもそれは後にしよう。今はせっかく秘境にいるのだから、もっといろいろな場所を見て回りたかった。 「あそこ、家が何軒か見えてるわ。集落があるのかしら」  花菜の指差す先に、古い日本家屋特有のくすんだ灰色の瓦屋根や朱や銀色に塗られたトタン屋根が五つか六つ、木々の隙間からひっそりと顔をのぞかせていた。 「どんな人達が住んでいるのかな?」  こんな辺鄙な場所だ。 どう考えても、素朴で善良なお爺さんお婆さん以外には想像がつかなかった。たまたま農作業中の誰かと出会ったなら、面白い話の一つでもしてくれるかもしれない。 「行ってみようか」  木々は強い日差しを遮って、どこからか涼しい風まで運んでくれた。歩いている路面を草叢から這い出した蔦が覆い、もはや道の境界すらなくしている。 「誰も草刈りしないのかな?」  蔦はカーブミラーや道路標識にまでもびっしり這い上り、それらを役に立たない奇怪なオブジェに変えてしまっていた。  やがて僕達は昔風の門構えと海鼠壁(なまこかべ)のお蔵がある一軒の大きな家の前まで来た。 「すごい、立派なお屋敷だね」 「でも・・・誰も住んでないみたいだわ」   窓という窓の板戸が閉まっていて、郵便受けの口がテープで塞がれている。庭木の手入れがされてなく、雑草ものび放題だ。この門が最後に閉ざされてから、一体どれほどの年月が経っているのだろう。 「他の家はどうかな?見てみよう」  三十分後。僕達は、おそらく昔は農地か畑であったろう緩い斜面に腰かけていた。引かれてきた山の湧き水が、ドドド、と勢いよくコンクリートの枡に落ち、そこを溢れ出た水がまた水路を流れていく。 「この水、すごく冷たくて気持いいわ!」 「どれどれ?あ、本当だ」  水面を指先ではじいてキャッキャと笑い、水をかけ合ったりして。そんな僕達を見ているのは、高い枝や電線で翼を休める無数の鳥と風に揺れる野の花だけ。結局、人の姿に出会うことは全くなかった。 「ここは無人の集落だったんだね」 「家の感じからして、以前は栄えていた感じがするけど・・・やっぱり場所が不便だから引っ越しちゃったのかしらね」 「もしかしたら養蚕農家だったのかも」  僕は周りを見渡して言った。 「ほら、ここも一見すると只の草地に見えるけれど、まだ桑の木があちこちに残っているよ。 きっとこの場所で桑の葉や農機具を洗ったりしていたんだ」   外から隔絶されたこの小さな集落の人達ならば、きっとお互いが強い絆で結ばれていた事だろう。日々の農作業で助け合い、各家の宴には家族で呼ばれ、季節ごとの祭礼を頑に守り、冠婚葬祭は合同で行う・・・とにかく慎ましく美しい生活。僕達はまるで幻の住人達に会ってきたかのように、勝手に想像して思いを馳せた。 「さてと、」立ち上がって、お尻をぽんぽんと叩きながら花菜が言った。 「今日は社会の勉強も理科の勉強もたくさんしたわね。それじゃ、帰ろうか」 「どうせなら、帰りは別の道で行こうよ」  近くの道路標識から、なだらかな下り坂で山腹をぐるりと回っていけば、最終的にはまた元の場所に出られると推測した。  こうして僕達は静寂に支配されたその集落に別れを告げ、帰途についたのだった。ゆっくり歩いて帰っても、まだ余裕でお昼御飯に間に合うくらいの時間だ。    
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