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「さ、着いたわよ」
車をバックで停めてサイドブレーキをギッ、と引きながら花菜が言った。
「え・・・!?ここが?」
驚いたことに、初めて見る景色だ。もう僕の知っているあの場所はなかった。車から降りた僕達は『やぶきり公園』の銘板が嵌まった門石の側を通って中へと入っていく。
石畳の中央には、半日陰でも育つサザンカ、紫陽花、クチナシなどの四角の植え込みが配置され、それを囲んで等間隔に、丸太型のベンチが据えられている。清潔そうなトイレと水飲み場も、きちんと入口の横に設置されていた。
「あの施設、移転になったのよ。十年くらい前かしらね。建物も老朽化してたし、場所自体の不便さもあったから」
「そうだったのか。知らなかったよ」
十年前といえば、僕達は中学の三年生くらいか。まあ受験とかでバタバタしてた頃だったから無理もない。
どこかからカッコウの鳴き声が聞こえる。もはやこの場所に陰鬱さはなく、安らかな静けさだけが満ちていた。おそらくは、大きな建造物が取り払われた開放感や、地面にゴミひとつ落ちていない清潔感も寄与しているのだろう。
「年に一度、ボランティアの人達が掃除に来てくれてるわ。あと、野鳥の会とか林業関係の人達も」
風が吹く度にサワサワと音がして、頭上で濃緑の葉をつけた枝々が揺れていた。見上げると、そこにはスダジイの大木が。この木はきっと元々からこの土地にあったものだな、と何となく思った。
その木の側に並んで置かれている何かの石碑を、花菜はじっと見ている。獣魂碑だった。碑文によると農林水産省、畜産協会、食肉加工に携わる様々の組合の連名で昭和五十五年建立、とある。人間の糧となる為に殺されていった動物たちの魂は、今もこの場所に留まり眠っているのだろうか。
「あの時は本当にショックだったわ・・・。私達は日頃から、人と同じように恐怖や苦しみを感じる存在を、当たり前のようにして食べていたのね」
「うん。僕もあの後しばらくは、泣きながら肉とか食べてたよ。だけど結局は受け入れるしかないんだ」
世の中には肉類を全く食べないという選択をする人もいるらしいけれど、そこまでの事は僕にはできない。いや、たぶん日本では難しいだろう。他人と同じ食事ができなかったら、普通の人付き合いや社会生活すらままならなくなってしまうから。
「でもさあ、」
また花菜が言った。
「これって私達の仕事とは関係なくない?この事がなんでトラウマの原因になったの?」
僕はう~ん、と少し考える。うまく説明できるだろうか?自信はないけれど、とにかく花菜に話してみよう。
「もしもさ、果物とか野菜なんかが、食べられたくない!って泣き叫んだら、花菜は農家なんて続けられると思う?」
「いや、果物や野菜は泣き叫ばないから」
「仮に、だよ。あくまでも ifの話で」
「まあ・・・精神的に無理と思うわ」
「だよね。だけどさ、命あるものを食糧にする為に育てて売る、といった意味では、僕らの仕事だって畜産と同じ業種なんだよ?いや根本的に一緒の仕事じゃないか。品目に泣き叫ぶ口がないというだけで」
「うーん、そうかしらね?」
「・・・それならば、あの畜産の人達と同じ程度の覚悟?とか心構えがなかったら、農家にもなれないんだな、と当時の僕は思ったんだよ。 でも自分の手で動物の命を絶つなんて、 とても無理だ。だから、僕には農業をやるだけの資格もないんだと結論してしまった」
「え?え?ちょっと待って!なんか私まで頭がおかしくなってきたわ」
片方の手で額を押さえ、もう片方の手で僕を制しながら花菜が言った。そして少し考えてから、
「やっぱりおかしい、極端すぎるわよ、それ!? だってそんな事を言い出してたら、 農家なんてできる人がいなくなっちゃうわ!」
「まあ十歳の僕が考えたことだからね」
花菜の反応が面白くて、思わず笑ってしまう。でもこんな仕方のない話を聞いて、真剣に考えてくれて、本当にいい奴だな。
「 あの時にそうやって誰かが一言、諭してくれてたらそれで良かったんだ。でも禁足地に行った事は家族には言えなかったし、花菜ともだんだん話さなくなってたから・・・。結局、怖い記憶は一人で心の奥底に閉じ込めて、トラウマだけが残されたという訳だな」
今、囚われていた何かがようやく解き放たれて、心が軽くなっていく感覚があった。
「ありがとうな。今日ここで花菜と話ができて、本当によかったよ」
「もう、考えたってどうしようもない事で思い悩むのはやめなさいね?」
それでも、人間の命が沢山の犠牲の上にある事実だけはずっと忘れずにいよう。そうまでして繋いできた自分の命だ。大切にしたい。僕にできるのは、せいぜいそれくらいの事しかないのだから。
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