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「・・・ねえ、ねえってば!」
花菜の声でハッと我にかえった。
「なにボーッとしてるのよ?ちゃんと前を見て。蛍に失礼でしょ!」
「あ、ああ、ごめん・・・」
「蛍が動き出してるわ。もうすぐ飛ぶからね、ちゃんと見てて」
山間を渡って来たひときわ強い風が、にわかに昼の余熱を吹き付けて、ザアッと木々や草の葉が揺れる。一秒、二秒、三秒が経って、それはパタリと止んだ。瞬間――それを合図に、蛍たちが次々と空中に舞い上がった!辺りからわあっという見物客の歓声があがる。
真っ直ぐ空に昇っていく光、水面をぐるぐる旋回する光、岩の上や草の葉を転々とする光、二匹で戯れ合うように螺旋を描いて飛ぶ光。命ある証として、規則に縛られた動きは存在しない。その無数の命が織りなす光の軌跡が、まるで星の海を漂っているような幻想的な情景を創り出した。
「どお?6年ぶりの蛍は?」
「うん、綺麗だ・・・。何度見てもいいもんだな」
風に押し流された一匹が、息切れしてポトリと足元の歩道に落ちてきた。この可愛い虫が誤って踏まれてしまったら大変だ。 僕はすぐに拾い上げ、蛍をそっと近くの草の葉の上に休ませてやった。
「・・・蛍って、どうしてこんなに美しいんだろうね?」
花菜がぽつりと言った。
「限りある小さな生命を燃やして、一生懸命に生きているんだ。その姿を見て、心打たれない人はないと思うよ」
「あと何回、見られるのかしらね?」
またぽつりと、花菜が言った。
実は、大規模な河川の改修工事がすぐそこまで進んできているのだ。あと数年以内に近くを流れる本流の川底がコンクリートで固められてしまう。そうなったら、ここの蛍は住み続けられるかどうか・・・。
地元にとって蛍は貴重な観光資源なのだけれど、県が工事を推進するのにも切実な理由がある。近年まで苦しめられてきた、河川や水田を発生源とする恐ろしい風土病だ。県民はその事を重々分かっているから、異議を唱える者はなかった。
「蛍がいなくなったら、ますます寂しくなるわね、この町」
ここは人口四千人の山間の小さな町。蛍以外にこれといった名物もなく、強いて言えば特産品の葡萄や桃くらいのものだ。
「まだそうなると決まった訳じゃない。けどさ、今のうちに一人でも多くの人がこの美しい景色を見て、心に留めて欲しいと思うよ」
「週末のホタル祭り、晴れるといいわね」
それからしばらくの間は会話もなく、僕達はただじっと蛍に見入った。沈黙も苦にならず受け容れられる。気がつけばお互いをよく知り尽くした元の二人に戻っていた。
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