都橋探偵事情『擬態』

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「いきがるな。それにこれは経費分で親分に返す必要のない金だ。私の赤字は井土ヶ谷から京浜安浦駅までの電車賃だけだ。美味い潮風に咽ただけでも元は取れた。さあ」  徳田が早く取るよう札を佐久間の胸に押し当てた。日雇い労働者の日給が4500円ほどの時代である。20万はそれなりに価値がある。しかしそのうちの10万は徳田のポケットマネーである。佐久間が唇を噛み締めて札を受け取った。 「礼は要らない。彼女を大事にしてやってくれ」  徳田は歩き出した。佐久間が涙を堪えて徳田を見送った。 「あんた~」  奈美恵が漁師小屋から飛び出して佐久間の胸に飛び込んだ。潮風に乗った奈美恵の声が徳田の背中を押した。  この時期の張り込みはきつい。雪交じりの小雨がしっとりとトレンチコートの肩に染み込む。追われているのは吉川というヒットマン。吉川に狙われたのは福富町で三軒のカジノを営業する韓国人でリ・ソジュンである。李は在日二世で頭の切れる男である。伊勢佐木町の若旦那を女仕掛けでカジノに誘い破産させては店を広げていった。李の進出に危機感を感じた地元やくざの皆川会が吉川に李を襲わせた。しかし吉川は李を撃ち損ね客に重傷を負わせた。そして逃亡から三日目に情報が入った。 「あの二階です」  場所は川崎の貝塚、貝塚ドヤ街と呼ばれている。日雇い人夫が宿泊する簡易宿泊所が軒を連ねている。 「間違いねえか」 「間違いないよ、吉川だよ」  大きな男でベージュのトレンチコートに茶のソフト帽を項に寄せて被っている。この男は伊勢佐木中央署のサブ班長で中西一美と言う。巡査から刑事になって13年になる。情報を入れている男はパチプロで顔が利く。
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