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「でもあの頃の僕には、こんな体で彼女を幸せに出来るとは思えなかった」
何もかも上向きの時代だったと聞く。男が女と子どもを支えるのが当たり前だった。今でこそ多様性が謳われるようになってきたけど、その頃の彼が生きづらかったのは容易に想像できた。郁が真顔で尋ねた。
「じゃあ、もしかしたら僕のひいおじいちゃんになってたかもってこと?」
「そうだね。でも、それで花枝さんが幸せだったかはわからないし、君が女の子として生まれてた可能性もある」
「えっ、それは困る! 咲花ちゃんの彼氏になれないもん」
マスターは可笑しそうに笑った。
「不思議な運命ですね」
「この時代に生まれていたら、あるいは…」
彼はそこで言葉を切った。
「いや、それでも彼女とあの時会えてよかったんです」
マスターは何か吹っ切れたように、爽やかな笑顔を見せた。
「先日、彼女から手紙が届いたんですよ。予め、自分の死後に発送するように頼めるらしいです」
「へえ…」
「最後まで花枝さんらしかったですね」
彼に何を伝えたんだろう。
結ばれない恋だけに別れはつらかったはず。でも、祖母も彼も悔いはないみたいだ。クリームソーダをずるずると飲み干して郁が言った。
「達ちゃんも早くカノジョ作りなよ」
「うるさい。俺は仕事に生きるんだ」
「今どきコウハなんて流行んないって。達ちゃんて、絶対生まれる時代を間違えたよね」
俺は今度は盛大に額を小突いてやった。大げさにさする郁と不貞腐れる俺を見て、マスターは優しく微笑んでいた。
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