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第1話・慈しむ:腕を伸ばして届く距離
今年は梅雨の入りが遅いようで、六月も下旬になろうというのに、まだ爽やかな初夏の空気がありがたい。文幸が自宅での仕事を終えて外に出ると、澄んだ夕映えの空が頭上に広がっていた。近所の防災無線塔から、のどかな「遠き山に日は落ちて」のメロディーが聞こえてくる。腕時計の針は午後六時を指していた。
今日はこれから、とあるジャズクラブで周の誕生祝いをする予定だ。彼の誕生日は月のはじめだけれど、ふたりの仕事や家の都合を合わせたらこの日になった。あわただしい大人にとって誕生日の「当日祝い」はなかなか難しい。しかし文幸と周は、せめて互いの誕生日の前後には、かならず時間をとって祝いあう年月を過ごしてきた。今年は息子たち――航太と悠――もいっしょだ。
周と出会って十一年。
彼と過ごす幸せな日々がずっと続きますように、終わりませんように。文幸がいちばんに願うのはいつもそのことだった。人づきあいが苦手な文幸の性質は、明るく社交的な周とは正反対だ。それなのに――それだからか、文幸は周と一緒にいて飽きることがない。喧嘩した記憶もほとんどない。
いや、喧嘩したこと、結構あったな。
文幸はそう思いなおして恥ずかしくなる。喧嘩になるのはいつも決まって、文幸がひとり勝手に自信をなくしたときだった。
日々の暮らしの端々に感じるほんの些細な不安、将来への不安。自分なんかとつきあっていて周にメリットはあるのだろうか、そもそも楽しいと思ってくれているだろうか。周は女性にも男性にもモテるのだから、ほんとうはもっといい人がいるのではないか。だから、俺なんかといないほうがいい――。
不安の裏返しでそんなふうに口を滑らせては、周にあきれられて喧嘩になった。文幸がクヨクヨすると、周はいつもまっすぐに怒った。文幸も周にだけは感情をむきだしにできるから言い合いになる。言い合いになって、でも、ふたつみっつ呼吸をしたらすぐに仲直り。どんな喧嘩も次の日に持ち越さない。そう決めているのだと周は笑う。
「だって喧嘩したまま文幸くんと別れちゃったら、一生後悔するもん、俺」
それが今生の別れになっちゃったらいやだもん。だから、ね? 仲直りしよう。というのが周の決まり文句だった。
大げさでなく、文幸はいつも周に救われてきた。
周だけではない。周のひとり息子である悠も、文幸たち親子にとってかけがえのない存在だった。彼らがいなかったら、「父ひとり、息子ひとり」の生活がこんなに穏やかであったはずがない。周を失いたくないと強く思う。彼に嫌われないように、捨てられないように。そんなふうに思いながら過ごしてきた日々は、しかし、文幸にとって愛おしく、満ち足りた日々だった。
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