第1話・慈しむ:腕を伸ばして届く距離

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 自宅の最寄り駅から下り電車に乗り込んだ。夕まぐれの電車は帰宅を急ぐ通勤客や学生で混雑している。終わりかけた一日の、疲れてほどけたような空気が満ちていた。文幸は不意に嬉しくなってひとりで頬をゆるめる。  何気ない日常に幸せを感じるだなんて。俺も年を取っちゃったんだなあ。  これから周に会える嬉しさも手伝って、文幸の気持ちは躍った。周とのデートはいつも楽しい。それに今年の誕生祝いは、息子の航太と協力してちょっとしたサプライズを用意しているから、なおさらだ。待ち合わせのジャズクラブは、駅ふたつ行った先の繁華街にある。文幸のワクワクを乗せて電車は走る。  ◆  降りた駅は複数路線の乗り入れがあって大きく、近くには大学や高校もあるから若い人の姿が目立つ。さんざめく人波に乗って、文幸はネオンまばゆい繁華街を歩いた。飲食店や小さな雑貨店が立ち並ぶ一角の雑居ビルに、ジャズクラブは入居している。その近くまで歩いていったところで、文幸は雑居ビルの地下から階段を駆けのぼってきた人物に気がついた。手慣れたようすで折り畳み式の小さな看板を広げ、路面に立てている。店内に戻りかけた彼を、文幸は急いで呼び止めた。 「航太!」  文幸の声に顔を上げたのは航太だった。ぱあっと嬉しそうな笑顔になって「とうちゃん!」と手を振ってくる。そのしぐさに、航太が幼かったころのあどけない面影がよぎった。しかしそんな感傷はすぐに消え去ってしまう。目の前にはのびのびと大柄な身体つきの十七歳が笑っている。 「とうちゃん、ずいぶん早いね」 「すまん。楽しみすぎて早く来ちゃった」  文幸が素直にそう言って頭をかくと、航太は声を上げて笑った。親子で毎日いっしょに寝起きしているのに、こうして家の外で顔を合わせると新鮮だ。航太が大人びたジャケット姿だからというのもある。落ち着いた艶のある黒いジャケットとスラックスのセットアップは、航太がジャズクラブに出入りするようになったときに買ってやったものだった。白いTシャツとスニーカーに合わせた着こなしはなかなかサマになっていて、親バカの色眼鏡で見るから余計にまぶしく映る。 「ジャケット、似合ってるな」 「んふふ、そう?」 「悠くんのパパは、悠くんと一緒に来るって。あとでとうちゃんが駅まで迎えにいくよ」 「わかった。それまで店のなかで待ってたら?」 「そうさせてもらうよ。マスターにも挨拶しなくちゃ」  地下への階段を航太に続いて下りながら、文幸は注意深く自分の言動を反芻する。大丈夫、ちゃんと父親らしく、大人としてのふるまいだったはず。  。  航太の前ではなるべく「」とは呼ばないようにしていた。周とつきあっていることは、航太にはまだ告げていない。勘の鋭い航太のことだから、もう気づかれているかもしれない。それでも、なんとなく察するのと、はっきりうちあけられるのとでは大きな違いがあると文幸は考えていた。  航太が大人になったら。周さんとこれから先もずっと一緒にいられると、確信できたら。そのときは航太にちゃんと伝えたい。でも、それは今ではない。文幸はほんとうの気持ちを、用心深く胸の奥にしまいこんで階段を下りていく。 (つづく)
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