第1話・慈しむ:腕を伸ばして届く距離

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 ジャズハウスは、カウンター席のほかにはテーブル席がいくつかあるだけの、小づくりな店だった。  白い漆喰壁に木製のカウンターがしつらえてあって、壁際に飴色のアップライトピアノと小さなステージがある。ピアノとステージがなければ古風な喫茶店のようでもあった。三十年ほど前の開店以来、地元で愛されているのはもちろん、時おり雑誌やテレビにも紹介されて遠方から訪れるジャズファンも多いと聞く。  マスターが文幸をにこやかに迎え入れてくれた。燻し銀のように渋い壮年男性で、目尻に深い笑い皺がある。文幸は、航太がいつも出入りさせてもらっていることに丁寧に礼を述べた。 「いつも息子がお世話になって、ありがとうございます」 「こちらこそ。航太くんは人気者だし、どんどんピアノが上手になってるよね」 「こちらの皆さんからいい刺激をもらっているみたいで」 「ほんとに音大を受験しないの? もったいないなあ」 「いやぁ……ねえ、どうでしょうねえ」  文幸は曖昧に苦笑いした。  航太はこのジャズハウスで週に一度、ライブフィーをもらってステージで演奏している。幼いころからピアノを習わせてきたが、それは気楽な「おけいこごと」のつもりだった。だからそのうち飽きてやめるだろうと思っていた。しかし、意外にも航太はいつまでたってもやめると言わない。ピアノ教室には今も在籍しているし、高校に進学したころから、通りがかった街角や駅の構内、地域センターなどにある「街角ピアノ」を弾くようになった。  この商店街にも、そんな街角ピアノがある。航太はそこでスカウトされたと、あとになって教えてくれた。  航太に声をかけたのは、この街にある音楽大学の、ジャズサークルの学生だった。彼らは、自分たちが定期的にセッションしているこのジャズハウスに航太を誘った。父親である文幸にもマスターからちゃんと話が通って、航太はここで大学生に混じって演奏するようになった。それが一年ほど前の話。  ジャズハウスと聞いたとき、飲酒とか喫煙とか夜更かしとか、未成年にはよろしくないイメージが頭をかすめたのは事実だ。しかし航太やマスターから「ぜひにぜひに」と誘われて聴きにきてみたら、このように拍子抜けするほど健全で、あたたかい雰囲気だったというわけ。  航太が参加するセッションは、夕方からのいちばん早いタイムテーブルのステージと決まっている。遅くとも午後十時には自宅に着くようにと、マスターが航太を送り出してくれる。未成年の飲酒喫煙は絶対禁止、美味い「まかない飯」までついてくるのだから言うことなしだ。  文幸も、なるべく時間をつくって航太の演奏を聴きにいくようにしていた。周を誘うこともある。航太も悠をよく誘っているようだった。父親ふたりで連れだって来店して、息子ふたりにばったり会うこともある。親子ぐるみでマスターともうちとけて、今ではすっかり文幸の行きつけの店になった。 「文幸さん、今日は準備万端だよ。航太くんとうまくやるから、文幸さんはお客さんとして楽しんでね」  マスターが嬉しそうに航太と「ねっ」と顔を見合わせる。航太も「にかぁ」と笑った。今夜は周と悠といっしょに軽食をとりながら航太のセッションを聴き、サプライズで「ハッピーバースデートゥーユー」の演奏を披露することになっている。  文幸はしばらくマスターの雑談相手をしてから、周たちを駅まで迎えに行くために店を出た。
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