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正直にいえば、周の料理のレパートリーはまだそんなに広くはない。同じシングルファーザーであっても、彼は文幸ほどには「手早く、そこそこに食卓を整えるスキル」が身についていないのだ。周の両親が近居で、いつも頼りきりだったのだからしかたがない。
ふたり暮らしのはじまりにあたって、周から「俺も文幸くんみたいに料理ができるようになりたいから、コツを教えてほしい」と申し出があった。だから周が台所に立てる日には一緒に料理をしたり、できるだけまかせるようにしている。食材の扱いがちょっと大雑把でも、味つけが少々ぎこちなくても、大好きな人がつくってくれる料理は格別にうまかった。そんなことにもあらためて気づかされて、文幸は幸せだ。
周がこれまでにつくったことのある料理で、簡単で、確実においしいもの。冷蔵庫にはどんな食材があったっけ。何がいいかなあ――。
「……えっと、麻婆豆腐はどうかな」
「おっ、いいね。それなら俺だって失敗せずにつくれる。ひき肉も冷蔵庫にあるし」
先に朝食を済ませた周が、皿をシンクにさげるついでに一冊の料理本を手にして戻ってきた。「家庭料理の基本のキ」というタイトルのその本は、文幸が周と一緒に書店で選んだものだ。奇をてらわない基本的なレシピが食材別に載っていて使い勝手がいい。そしてどのレシピも、うまい。
「この本を見れば、ちゃんと作れるから。豆腐は塩で下ゆでするんだよね」
得意げに麻婆豆腐のページを開いてみせる周がかわいくて、文幸は温かい気持ちになる。
「ふふっ。ありがとうございます。今日の夕飯が楽しみだな」
文幸も自分の食器をシンクにさげて、そのまま洗いものをはじめた。
周は出勤のために身支度を整えている。寝室でワイシャツとスラックスに着替え、シャツのボタンを留めながら洗面所へ入っていき、髪をワックスでなでつけながら出てくる。それからリビングに戻ってきて、姿見の前に立ってネクタイを結びはじめた。
そんな周のモーニングルーティンを、台所で皿を洗いながら盗み見するのが文幸のひそかな楽しみだ。身支度が整っていくにつれて、彼の顔は勤め人の凛々しい表情になっていく。ファッションチェックも楽しい。今日はあかるいグレーのピンストライプスーツに、薄い水色のシャツだった。ネクタイは紺の無地。爽やかでかっこいい取り合わせだなあ。よく似合う。
「じゃあ、文幸くん。行ってきます」
「はい、いってらっしゃい」
「文幸くんも仕事がんばってね」
「はい。……あ、周さん待って」
玄関に向かいかけた周を追いかけていって、上着の襟がしっかり折りきれていなかったのを直してやる。「ありがとう」と照れ笑いされた。
それからハグして、軽くキスをする。
これはふたりのモーニングルーティンだ。
周が開けた玄関扉から、いくぶん冷たい、澄んだ朝の空気が入ってきた。
今日もいい天気になりそうだ。
文幸は、周がマンションの階段を下りて見えなくなるまで笑顔で見送った。
――おしまい!
(おつきあいいただきありがとうございましたー!)
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