第1話・慈しむ:腕を伸ばして届く距離

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 周と悠を連れてジャズクラブに戻ると、ちょうど開店時間だった。  周のために、いちばんいいソファ席を予約しておいた。横並びで腰を落ち着けて「お誕生日おめでとうございます」「ありがとう」と乾杯した。マスターに頼んで出してもらった、ちょっとだけ値の張るシャンパン。キリッと冷えていて、グラスに口をつけた周が「ああ、うまい」と満足そうにつぶやいた。悠はその隣でりんごジュースを飲んでいる。  今夜一回目のセッションがはじまった。航太と、男子大学生ふたりによるピアノ・トリオだ。客席には学生のサークル仲間にまじってファンらしき若い人も集まっている。  最初は航太たちのオリジナル・ナンバー。自宅で練習しているのを聴いたことがあったし、このステージでも何度か聴いたことがある。突き抜けるような疾走感、腹にくる重量感。若くて粗削りで、聴く人の胸ぐらをぐっとつかんで惹きつけるような魅力がある。  航太、すごいなあ。またうまくなった。  アップライトピアノに向かう航太の背中は大きかった。トリオの編成は、ピアノのほかはテナーサックスとドラムスで、彼らの演奏も聞くたびにうまくなっている。  テーブルに軽食が運ばれてきた。そっと皿を置いたのは悠だった。悠はそのままカウンターのほうへ引き返していって、今度は別のテーブルに飲み物を運んでいる。航太がセッションしている30分ほどの間、席にぽつんと座っているのが落ち着かないのだそうだ。それでマスターに頼んで、こうしてちょっとした店の手伝いをさせてもらっているのだという。暗がりでふと目が合った。文幸が小さく手を振ると、首から上だけでぺこっと――不愛想ながらかわいいおじぎが返ってくる。
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