第1話・慈しむ:腕を伸ばして届く距離

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 もう、息子たちを子ども扱いしちゃいけないってわかってるんだけど。  文幸は心のなかで苦笑いする。  航太も悠もいつのまにか十七歳、高校三年生である。体格も振る舞いも、もう大人と同じ。頼もしくて若くて、まぶしい。それでもやっぱりかわいい息子たちだ。  航太たちの演奏は次の曲に移っていた。  有名なアニメ映画のサウンドトラックをジャズトリオにアレンジしたナンバーで、耳になじんだメロディが嬉しい。文幸は子どものころからこのアニメ映画が大好きだった。テレビで放送したのをビデオテープに録画して大事に持っていたが、航太が生まれたのを機にあらためてDVDソフトを買った。航太と一緒にどれだけ繰り返し観たかわからない。特に航太が気に入ったシーンは、そこだけ何度も戻しては再生、また戻しては再生……と延々つきあわされたものだ。  いま、文幸が耳にしているのは、まさにそのシーンで流れる劇中曲だった。  不意に鼻の奥がツンとなる。  決して涙を誘うような、感動的なシーンではない。愉快でワクワクする、底抜けに明るい場面だ。幼かった航太はここで必ずキャッキャッと声をあげて笑った。笑って、それから文幸に向かって小さな指をピッとたてて催促するのだ、「もういっかい!」。仕事に育児に疲れ切って、眠たくて、ソファで航太を抱っこしながら、彼の身体の温もりと小さな重みが心地よくて、半分まぶたを閉じながら映像を戻す。そしてまたウトウトして、「もういっかい!」と起こされる――。  このアニメ映画を最後に観たのはいつだったろう。もう何年も観ていない。この曲を聴くのもずいぶん久しぶりだ。洪水のように昔の記憶がよみがえってくる。  離婚したばかりで心細かったころ。  目の前のことも、将来のことも不安だった。  でも航太のことがかわいくて仕方なくて、一生懸命、自分を励ましながらここまでやってきた。  大変なことばかりだったけど、嬉しいことも、楽しいことも同じくらいあった。  タイミングがいいのか悪いのか、トリオの演奏は航太のピアノ・ソロのパートにさしかかっていた。透きとおるようなピアノアレンジが店内に広がっていく。それを聴いたらもうこらえきれなかった。涙がぽろっとこぼれてしまう。それをあわてて指で拭おうとして――、隣で大きく鼻をすすりあげる気配がして現実に引き戻された。  あ、周さんも泣いちゃった。  有名なアニメ映画だから、周もこの曲に思い出があるのかもしれない。昔を思い出してセンチメンタルになっちゃったかな。周はこんなにキリッとした男前なのに泣き虫で、今もぽろぽろと盛大に涙をこぼしながら、唇を震わせながら演奏に聴き入っている。その横顔を見ていたら愛おしさがこみあげてくる。  文幸はそうっと腕を伸ばして、周の肩に触れた。  周はきまり悪そうにこちらを見て、照れ笑いした。それからごしごしと手のひらで涙を拭いて、顔をこちらに寄せて「航太くん、ピアノが上手になったね。この映画は悠がちっちゃいころに何度も観たよ。懐かしい」とささやいてきた。文幸はテーブルの陰で目立たないように、周の手をとって握りしめた。周もぎゅっと握り返してくる。ふたりで顔を見合わせて笑いあった。 (つづく)
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