第1話・慈しむ:腕を伸ばして届く距離

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 そこで次の曲になる。今度こそ、この場にいる誰もが知っている曲だった。陽気で派手な「ハッピー・バースデー・トゥー・ユー」を、航太たちピアノトリオは大げさなアレンジで演奏して盛り上げる。客席の歓声や拍手に、まだ涙で目をうるませたまま、まさか自分のための演奏とは思わない周がキョロキョロしているのがおかしい。やがて奥から、仰々しい花火で飾りたてたケーキを持った悠があらわれた。悠はちょっとぶっきらぼうに、周の目の前にそれを置く。そこで周は初めて「あっ」という表情になった。客席の拍手がいっそう大きくなって、文幸ももう笑いをこらえきれない。 「周さん、お誕生日おめでとう!」 「文幸くん……」  周は目を丸くしたまま、またぽろぽろと涙をこぼしてしまった。それでも悠から「ほら、早く火を消しなよ」と不愛想に促され、「こんな花火、どうやって吹き消すんだよ!」とムキになって言い返して、周囲の客に笑われている。結局、ケーキに挿した花火が消えないうちに、とマスターが写真を撮ってくれた。周と悠の親子ツーショットだ。文幸はそっと体をよけて、楽しそうな彼らの記念撮影を見守った。  腕を伸ばして、触れようと思えば触れられる距離。  それを見守れる、幸せ。  文幸は嬉しい気持ちを抱きしめる。  周が目の前にいて楽しそうに笑っている。いま、文幸の幸せは手の届く距離にあった。それが思わぬことで急に遠ざかったり、なくしてしまう怖さはずっとある。でも必死に追いかけなくていい。寂しいとき、不安なとき、腕をのばせばいつでも触れられる、温もりを感じられる。そう思えることがありがたかった。  航太がセッションを終えて、文幸と周が座っているソファ席にやってきた。「サプライズ、うまくいった?」と嬉しそうな顔をする航太は、褒められるのを待ちかねた無邪気な大型犬のようだった。文幸と周、悠も加わって「うん。大成功、大成功」と航太の身体をつかまえて、ワシャワシャ撫でてやった。
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