憧心

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「本当に失礼しました」  抑揚はないけど、洞穴を想像させる深く広がりのある声をしていた。その声音に惹かれ、あまり他人の顔なんて見ないカナでも思わず顔を見上げてしまった。  甘いマスクとも違う。優しそうな雰囲気はあるが、目には他者を必要以上に近付けない鋭さも持ち合わせていた。  恐らく今日無理に合コンに誘ってきた自称友人たちは、彼を見て口々に「かっこいい」だとか「イケメン」だとか言うだろう。  その美麗な顔を持つ彼は今、田舎臭の消えない自分に誠実に謝罪している。  彼女自身が「下らない」と軽蔑する一目惚れに近い感覚が沸き起こった。  まるで脊髄に何か注入されたような(そんな経験はないが)、鮮烈な感覚が体を支配していくのが分かった。 「いえ、私こそ無神経に椅子を……」  カナがなんとか正気に戻りそう言うと、彼の鋭そうな視線は幾分柔らかいものに変わった。目元が和らいだのは彼が微笑んでいるからだと気づいて、先程の脊髄の感覚が顔だけに集中した。 「本、お好きなんですか? これ北野正吾の新作ミステリーですよね?」  テーブルに置いたままの本を指差して彼が言った。  これが夏の終わりの、聡との出会いだった。  連絡先なんてもちろん交換しない。  そんなの初回からするなんて下品だ。  そう思っていたのだが、彼女は帰宅後交換しなかったことを後悔する。  彼とはあの場で二、三言葉を交わしただけだった。  カナが彼に夢中になるのには十分な時間だった。    清潔感のある身だしなみに、整った顔。そして低い声でなされる知的な会話。  品定めするような視線は一切彼女には向けず、本の話題を少しばかりすると、彼は「また」と言って去っていった。  そう、「また」と言ったのだ。  連絡先を交換したわけでもない、お互いが何処にいるかも分からないのに、彼は「また」と言ったのだ。  それは彼もカナに再会を望んでいることと受け止めた。  夜中でもうだるような東京の残暑は、一気に恋心が過熱する彼女には涼しいくらいに感じたかもしれない。
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