憧心

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 他人にそんな妄想を抱くなんて初めてだった。  なんて不埒な想像をしているのだろうかと思う一方で、彼の様子を盗み見ることが止められない。  開いたシャツの首元に見える鎖骨。アイスコーヒーを流し込む喉ぼとけはコクリと上下している。筋張った首、ストローを咥える薄い唇。  整った鼻筋の上では、カナと同じように彼女を見ている聡の視線があったが、目が合うとすぐに気まずそうに反らされた。  どこを見ていたのだろう。  私の目? 化粧なんて知らなかったのに、そこにはうっすらとサンドベージュのアイシャドウが乗っている。  私の唇? 薬用リップ以外のものは初めてだった。ペールアプリコットの、少しだけ艶感の増すリップ。  私の首元? 別に見せつけようと思って買ったわけではない。ダークブラウンの色が気に入ってそのまま購入しただけで、思ったより胸元が開いていただけ。キャミソールで隠すことも出来るけど、重ねるには少し暑いし……。  彼の喉元が、何も飲んでいないのにコクリと動いたように見えた。  そろそろ日付を跨いでしまう。  まだ連絡先を交換しただけで、別に交際をしているわけではない。  交際をしていたとしても、終電を逃すほど一緒にいるのはまだ早いだろう。  きっと彼は、清楚で良識的な女が好きなのだ。  いくら一緒にいたいからと言って、不良じみた女の真似事なんて良くない。 「あの、私、そろそろ……」 「ああ、そうだね。もうこんな時間か。駅まで送って行くよ。いい?」  送るだけでもこうして確認してくれる。誠実な人だ。  勿論カナは首を縦に振った。  はにかみながら、少しもったいぶるように、ゆっくりと。  この時間でもまだ人通りのある都会。  意外と狭い歩道で、うっかり彼の手とぶつかってしまった。  彼は「ごめん」と言いながらも、ちらっと私の手を見ていた。  あの本をめくる時の優しい指先に、もう少し触れてみたい。  彼も、もしかしたらそう思ってくれたのかもしれなかった。  穏やかな逢瀬は続く。  時が流れ、成績が少し落ち、バイト代は手元には残らない。  オールジャンルをまんべんなく読んでいた本は、恋愛ものが増えた。しかもあまり手にすることはなかった少し大人の雰囲気が強いものを読むようになった。  聡への想いだけは、限度を知らない風船のように膨れていった。  それなのに。  好きです。  この四文字だけは、どんなに彼との会話が増えてもなかなか言えなかった。  万が一、この言葉を伝えた時、全て彼女の勘違いで、二度と会えなくなることが怖くて。  六つ年上の彼は、カナにとって憧れの権化だった。  最先端の都会に住み、模範的な生活を送り、洗練された容姿と頭と話術を持つ。  カナのような小娘でも、彼と肩を並べても遜色ないように引き上げてくれる。  知らない世界を教えてくれ、同じ景色を見せてくれようとする。
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