09.学んだことのすべて

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09.学んだことのすべて

 緊張感漂うコーヒーアカデミーの実習室。  翔太をはじめ、ここでコーヒーを修行した仲間たちがそれぞれのコーヒーに今までの経験を注ぎ込んでいる。ここで学んだこと、そして店を持って学んだことのすべてを。  それもみな、広瀬妙子の評価に耐えられるコーヒーを抽出できるように。それに加えて、今日は数年ぶりに広瀬妙子とともに京介もこの実習室に姿を見せた。右腕を失った姿で。  だからこそ、最高の一杯を二人に届けなきゃいけない。そんな重圧が翔太の両肩にのしかかる。  翔太は他の仲間と同じように、出来上がったばかりのブラックコーヒーを小さな味見用の紙コップへと二杯分注いだ。ミルクも砂糖も入れない、コーヒー本来の味を味わうためのブラックコーヒー。  広瀬妙子は他の仲間のコーヒーを口に含んでは簡単な感想を口にする。うん、腕は落ちてない。すごくいいじゃない。ここで学んだことをうまく取り入れて、自分だけの味を作ってる。そんな褒め言葉が彼女の口から出てくるたびに仲間たちはほっとした顔。  いよいよ翔太の順番がめぐってきた。まずは広瀬妙子の味見。香りを嗅ぎ、そしてゆっくりとひとくちコーヒーをすする。大きく波打つ翔太の心臓。彼女は紙コップをじっと見つめる。コーヒーの色味をたしかめるために。 「悪くはない」  悪くはない? 翔太は肩透かしを食ったような気分。 「基本に忠実で、私が教えたことをちゃんと守っているというのはわかる。うん、じゅうぶんに及第点は取ってる。けど……」  広瀬妙子の次の言葉を待つあいだ、翔太は緊張感のあまり呼吸さえも忘れてしまったみたいに、その場で固まるばかり。 「正直に言います。基本に忠実すぎて、そこからの広がりをあまり感じられない。教科書どおりだけど、それだけの味ね。前回のコーヒーテストから一歩も進化していない」  翔太の全身から力が抜けた。上京前から抱いていた緊張感がすべてほどけた一方で、今度は無力感みたいなものが全身を満たした。  広瀬妙子は次のコーヒーの味を味見しはじめた。彼女と入れ替わりに今度は京介が翔太のコーヒーを味わう。 「さすがだな、美味いよ。これならお店のお客さんも満足だろう」  その言葉に偽りはなさそうだった。 「ありがとう、そう言ってもらえて嬉しいよ」  けど、翔太はさっきの広瀬妙子の言葉を引きずったまま。  こうして、コーヒーテストは終わった。
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