もうすぐ、もうすぐ、お生まれになりますよ。

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 男には週に一回、定期的に通院してもらうように――体調に変化があったら、早急(さっきゅう)に連絡するようにお願いしました。  時間と共に、男の胃の中で胎児は明確な形を持ち始め、彼の生活にも少しずつ影響を及ぼすようになりました。それだけではありません。男は「奇妙な夢を見るようになった」と言いました。  漆黒の空に複数浮かぶ黄金色の目、幾千の視線が男に突き刺さり、何処を見ても目が合う。それに耐え切れず目の存在しない暗闇に視線をやれば、無数の触手が絡み合う名状することさえ恐ろしい異形の存在。そして、悪意に満ちた囁き声が絶えず聞こえてくる――。  それは、日を追う毎に夢と現実の区別がつかなくなるほど、彼の精神を蝕んでいきました。 「ドクター、少しよろしいでしょうか?」  あたくしに声をかけてきたのは、共に男の世話をしている看護婦でした。  彼女は(しと)やかでいて蠱惑(こわく)的、温厚で積極的ですが内向的な一面もあり、病弱そうに見えて活発的でした。彼女の姿を見ていると、なんらかの違和感を覚えるのですが、努力家なところがあるので、それが関係しているのかもしれません。  看護婦はあたくしの隣に立つと、こう言うのです。 「もうすぐ、お生まれになりますよ」  りん、と芯の通った声が脳髄に響きました。  彼女は、にっこりと柔和な微笑を口元にたたえ、赤い舌を尖った白い歯の隙間から見せました。  あたくしまで気が()れてしまったのでしょうか。  看護婦は珍しい女でした。それを言うのも、彼女が虹彩異色症(ヘテロクロミア)だからです。彼女の右目は赤色、左目は緑色をしておりました。どちらも美しい色をしているのですが、見つめられる度に、その瞳の美しさを恐ろしいと思うのでした。 「そろそろ、彼をここに入院させるのはいかがでしょうか?」 「しかし――まだ胃の中の胎児について――――」 「もうすぐ、お生まれになるというのに?」  看護婦の言葉は御尤も(その道理)でした。だからと言って、産科医を招いたところで、事の解決には到底及ばないでしょう。  それならば、あたくしが立ち会うしかない。  ――あたくしはここで最悪の事態さえも心積もりしたのです。
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