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その時、あたくしの意識は急速に変容していくのを感じました。
現実と非現実の境界が曖昧になり、全てが一体となって溶け合っていくような感覚に包まれました。
赤子の目には、深い宇宙のような無限の広がりが見え、そこには数えきれない星々と不気味な影が蠢いているのが感じられました。
――これがあの男が見ていた夢なのかもしれない。
あたくしは奇妙な安らぎに身を投じそうになる意識を、首を横に振ることで戻し、赤子を看護婦へ返しました。
「アラアラマアマア。もっと抱いてくださってよろしいのに」
「いえ。もう……たくさんです」
「生命を恐れることはありません。我々の行きつく先は甘き死。死は誰にでも平等に。逃れられない存在でございますわ。そこには、今までの苦しみや悲しみは無く、ただ永遠の安らぎが待っているのですよ。この子を抱いていると感じられますわ。どうか生命を恐れずに」
彼女の声はまるで魅惑的な呪文のようで、心の奥深くに浸透していくのです。
惑わされてはならない、そう思っていても、光に引き寄せられる虫のように心が傾いていくのです。
恐怖と安心感が入り混じる中で、あたくしは意識と強く保とうと自らの手を抓りました。ぼんやりと靄がかっていた思考が急速に晴れていくように感じます。
「この赤子も、一つの生命という意味では、医者であるあたくしにとって大切な存在ですが、あたくしが抱いているよりも、貴女が抱いたほうが、この子にとって喜ばしいことでしょう」
あたくしは自分の言葉に力を込めました。うやむやになっていた現実の境界が、はっきり裂けたような感覚がします。
これは現実です。ここは現実。夢の中ではない。夢に引き込まれてしまってはいけない。
――これは、悪い夢でしかないのだから。
看護婦は少しも動じることなく、優雅な笑みを浮かべたままでした。
「わかりましたわ。ドクターの選択もまた尊重されるべきものでございます。この子も、わたくしから離れるのが寂しいようでございますし」
看護婦は赤子を優しく抱きかかえ、その場を去っていきました。
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