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 だけど、時間外診療の病院の待合室はしんと静まり返っている。真尋のお母さんは私と目が合うと表情ひとつ変えずドカドカと靴音を鳴らして近づいてきた。「あ、はじめまし……」言い切る前だった。  バチンと鈍い音が待合室のホールに不気味なまでに響いた。隣にいた冴子さんは思わず目を見開いた。そしてすぐに駆け寄ってきた。  私は打たれた左頬が痛くて思わず自分の左手で押さえた。心臓が早鐘を打つ。  「連れて帰ります」  沈黙を打破したのは真尋のお母さんのその言葉だった。私は何も返せずただ下を向き唇を噛み締めるしかなかった。唇の隙間からぷしゅーと覇気のない音が漏れる。なんとかそれを言葉に変えて「申し訳ありません」とこぼす。  診察室のドアが開く。 「お母さんもお願いします」  そう言われ真尋のお母さんが席を立った。そのとき真尋がひょっこり顔を出してニコッと笑った。ひとまず大丈夫そうで安堵した。そこに入れるのは私ではなかった。そして真尋のお母さんは部屋に消えていった。そこに入れるのは私ではなかった。
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