3. 夜の森の間で

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3. 夜の森の間で

 夜空が砕け散ったような影の群れは一向に日暮から離れず、前後左右なおも頭上から襲い掛かってきた。 九、  まるで夜の底が破れ落ちてくるようだった。  見上げる目に、ミリリリと周囲の木の枝を鳴らして、夜空の破片が降ってくる。  砕けた皿の欠片を擦るようなキルルルと音を立てて、黒い座布団大の影が右に左に滑り落ちてきたのだ。  何かが風を巻いて、日暮の頭の上をかすめる。  慌てて左手で頭を隠し、右手を振り回した。だが、無駄に手を振るだけで、影は奇妙にすり抜けていく。  咽喉から吐き出される呻きが、じきに喚き声に変わってしまう。  日暮は後先も見ず、両手を頭上で振り回しながら、無闇矢鱈に森の樹々の間を走り回った。だが、影の群れは一向に離れず、取り囲むように前後左右なおも頭上から襲い掛かってきた。  な、なんだ。鳥か獣か。それともヤマの連中が言う、迷い込んだ者を襲う獣の悪霊か。  暗くて足元も覚束ない。あっという間に、地面の上に出ていた木の根につまずいてしまった。日暮は下生えの上にどうと倒れ込んだ。  そのまま息も切れ切れに、わずかに上体だけ起こした。草のにおいが鼻を突く。  その日暮の上に、何かがばさりと降ってきた。 「それで身体を覆え。コイツらは木の実や葉しか食べない。虫さえ食べようとしない。噛まれる心配はない。」  手に取って星影にすかして見ると、紺染めの麻の大きな風呂敷のようだった。  鋭く強く男の声が天から降ってきた。聞き覚えのある若い男の声だった。それも、ごく最近。 「だが、ムササビは爪が鋭い。引っ掻かれないように、それを被って頭を低くしていろ。」  座り込んだまま、紺布を頭から被る。目だけそっと頭上を見上げた。  その目に、炎の線が浮かび上がった。  夜空の闇の中に浮かぶ一本の煌めく赤い線。実際は一灯の炎だった。  一本の松明の先に灯した炎が、空間を右に左に飛び回っている。  星影の下、松明を手にした人の影が、紺の外衣をなびかせて空中に浮かびあがった。  多分、木の枝から枝に縄を渡して、振り子のように樹から樹へスイングして飛び移っているのだろう。  頭上のあちらこちらで火の粉がパッとあがる。その度に、ギギャーと喚き声が上がった。  飛び交うムササビの背の上から、松明の炎を叩き付けているようだった。  ムササビは滑空するだけで空中で旋回や反転は出来ない。真上から襲われると無抵抗だ、と聞いた覚えがあった。  しばらくして夜空の激闘にケリが付いたようだ。獣毛の燃える生ぐさい臭いを残して、ムササビの群れの黒い影は姿を消していた。  近くの大樹の幹を、紺の印半纏が頭を下にしてザッザと降りてきた。手鉤足鉤を使っているのだろう。  まさに木樵でなければ出来ない芸当だった。  降り立つと、男は座り込んでいる日暮の前に立った。声が降ってくる。 「大丈夫かい、先生。」 「あ、有難うございます。」  見上げると、櫛奈屋敷で『猿』と呼ばれた青年だった。  日暮はよろよろと立ち上がった。 「君が来てくれなければ、生きてなかった。」  猿はニヤリと笑った。笑った顔には、何処かしらまだ幼さが残っている。クシナやスサら日暮の生徒と、それほど歳が変わらないかも。 「だから言っただろう。スサってガキを捕まえるまでは、あんたには生きてこの町にいてもらう、って。」  日暮は、この一見粗暴に見える青年が好きになりそうだった。  胸に教師としての責任が蘇ってきた。 「きっとスサと連絡を付けてみせる。だから、ひとつだけ約束してほしいんだ。」  日暮は真剣な眼差しで猿を見つめた。 「スサに悪気は無かったはずだ。仕返しとか乱暴はしないでくれ。」  猿は奇妙な顔をした。 「先生、あんた、なんか勘違いしてるようだな。それは後で話す。」  猿の声が急に鋭くなった。 「音が聞こえる。危険が迫ってる。サッサと逃げ出すぞ。」 「ムササビがまた襲ってくるのか。」 「ムササビがあんなに興奮するのも滅多に無いことだけれど。  そんなものより、ずっと恐ろしいもんだ。」  猿はもう小走りに歩き始めていた。
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