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2. 旧林業試験所
他所者が森の中に迷い込むと祟られる、とヤマの者たちは言い伝えておる。伐採のときに殺された獣の霊に取り憑かれる、とな。
五、
足取りも重く、日暮は学校に帰って来た。
勿論、自分の生徒を気の荒い木樵一家に渡す積もりはなかった。
それにしても、急いでスサに会って、もう一度詳細に事情を聞かなければ。
日暮は指導要録、いわゆる学籍簿からスサの現住所を書き写した。
スサは元々この土地の者ではなかった。高校入学とほぼ同時に、父親と二人、倉水に引っ越してきたようだ。
記載された現住所からすると、どうやらこの町域の外れのようだ。
此処ら一帯の地理に詳しい、用務員の老人に尋ねてみた。
「懐かしいな、この住所の字。」
小柄で顔は皺だらけだが、眼は敏捷に動く老人だった。ヤマの縄張りの生まれだと聞いていた。
「大きな池があってな。ドジョ池と呼んで、子どもの頃、こっそり泥鰌を釣りに行ったもんだ。」
老人は懐かしそうに目を細めた。
「池と言っても、あちこちの川から水路を築いて、流れを引き入れた貯水池だがな。」
「貯水池と言いますと、何か工場とか倉庫とか。」
「いやいや。林野局の林業試験所が有ったんだ。」
老人は首を振った。
「林業ってヤツは、ただ樹木を伐採するだけじゃない。地域毎、樹種毎に調査して、毎年定期的にぐるりと植栽して回るんだよ。
それに森の樹木の病害とか、伝染病の早期発見やらの対処なぞも重要な役務でな。
それで、あちこちの森から伐って川に流した樹木のサンプルを、貯水池に溜めておく。」
「今でも、その林業試験所は稼働しているのですか。」
それなら、スサの父親は試験所の職員かもしれない。
「いや、いや。」
老人はまた首を振った。
「此処ら一帯の林業がすっかり衰退してしまったからな。とっくの昔に閉鎖して、何処か他所へ引っ越しておる。」
「でも、このスサという生徒の現住所は其処になってるんですが。」
当惑げに住所を示す日暮に、老人も首を傾げた。
「あの辺り、今ではめっきり人の行き来が無くなってる。以前は朝夕に路線バスが走ってたし、資機材を運ぶ定期トラック便も多かったが、すっかり廃止になってる。
まだ建屋は残ってるみたいだけど、あんなところに人が住んでるとはなあ。誰か他所者が住み着いているのかもしれん。」
五〜ニ、
日暮は道の脇の草むらに自転車を置いた。目指す住所はもう直ぐのはずだった。
用務員の老人に教えてもらった旧林業試験所への道は、灌木の中を真っ直ぐに伸びていた。道幅は広かったが長年整備されてないようだった。倒木や落石、大きな陥没穴などがあって、慣れない人間には歩いた方が早そうだ。
老人が、見回り用の自転車を貸してくれたのだ。
「学校から歩くと一時間半は掛かる。自転車だと三十分で行けるぞ。それに。」
声を落とすと、揶揄うようにニタリと笑った。
「ヤマの者たちは、他所者があの森の中に迷い込むと祟られる、と言い伝えておる。伐採のときに殺された獣の霊に取り憑かれる、とな。注意しなされ。」
老人の言葉を思い出したのか、デコボコ道を歩く日暮は微かに身震いした。木立の中から吹いてくる冷風のせいかもしれなかった。
日暮は倉水の出身ではない。
とは言え、この高校に転任してから、倉水一帯にまつわる奇談を幾つも聞かされていた。
たとえば、教師らの飲み会の席などで。
「日暮先生、此処の森林地帯に『ムササビ凧』という伝説があるのを聞いとりますか。」
暑気払いの居酒屋で、地酒のグラスに顔を赤くしながら年配の古文の教師が話し掛けてきた。
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