くさい あっちへ行け

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日暮(ひぐらし)先生。あいつ、こんなこと言ったの。  もうすぐお前は死ぬだろう、って。ひどく苦しむかもしれない。  ぼくが近くにいたら、助けられたかもしれないのに。  残念だ、って。」  憤慨している口調とは裏腹に、この娘は微かに怯えているのかもしれなかった。 一、  東北S県の県境、倉水(くらみ)という山合いの町で、日暮琢人(ひぐらし たくと)は高校教師をしていた。   この倉水の一帯は広大な森林を背にしている。戦前は軍事用木材の出荷で賑わいを見せていた。  だが、ここ数十年来、木材価格が冷込んで、林業従事者が激減してしまった。点在する集落はどれも、多くて数百人前後に落ち込んでしまったようだ。  奇譚の始まりは夏から秋に移り変わる、まだ残暑の厳しい頃。  放課後、職員室に日暮の担任する女子生徒がやって来た。櫛奈(クシナ)と言う名の少女だった。  女子生徒クシナは日暮のデスクの前に立つなり、 「先生、あのゴヅベのカマキリ眼鏡、厳罰にするか処分して。」  白い手鞠のような丸い頬を紅潮させ、唇を尖らせた。  憤りの表情なのだろうか。  わずかに目の端に怯えに似た色が見える気もした。  日暮は座ったまま、少女を見上げた。夏用の制服からのぞく色白の手足がすらりと長い。 「先生は、ゴヅベという名の者も、カマキリ眼鏡という名の者も知らん。」  素っ気なく言葉を返した。  ゴヅベとはこの土地固有の悪態だ。元々は伐採の木端(こっぱ)を拾って糊口を凌ぐ者のことで、今は人を蔑む言葉になっている。  クシナは不満げに小さく唇を噛んだ。  日暮は、数年我慢すれば東京に帰れるツテを掴んでいた。この山合いの町の身分とか階級のヒエラルキーに関わることを避けてきた。関心も持たなかった。  とは言え、クシナの父親はこの辺りの広大な森林を所有する山林地主だった。地元林業の元締めでもあった。  衰退したとは言え、いまだ此処ら一帯の林業従事者の間では権勢を保っていた。  クシナは憎々しげに同級の男子生徒の名を上げた。 「あいつ、いつも教室の隅にうずくまって、じっと私たちを見ている。気持ち悪い。」 「彼は元々、この土地のもんじゃない。簡単にお前たちとは打ち解けられないんだろう。」 「だって、あいつ、この土地の者を無視してるし、礼儀知らずだし。  あいつの周りだけ、じとっと薄暗くって。いるだけで、空気が朽木の腐ったみたいに臭くなる気がしてくるし。」  日暮は小さく溜め息を付いた。いつまでもこの大地主の娘っ子の憎まれ口を聞いている気にはなれない。 「分かった。もっとこの土地の者と打ちとけるように言っておく。  お前みたいな連中には、黙って頭を下げておけって、な。」  日暮は話を打ち切るように少女から目をそらした。 「だがな、クシナ。教室の隅にうずくまっているだけで、懲戒処分には出来ないからな。」  担任教師の言葉に、クシナは急に眼をギラつかせた。  首をすくめると職員室の中を見回す。たまたま周囲に同僚の教師の姿は無かった。  少女はそれを狙って来たのかもしれない。  クシナは声をひそめながらも強い口調で訴えた。 「先生、最近あの男、じっと目で私を追ってる。それに、二、三度下校の帰り、後ろに付いて来るの見たし。」  おい、おい。  日暮は腹の中で舌打ちした。  色気づいたガキどもの恋愛相談かよ。  クシナは敏感に日暮の表情を感じ取ったようだ。鋭く首を振った。 「そうじゃなくて。それだけじゃないの。  わたし、男の子たちに言い寄られるのには、慣れてるけど。  今日、あいつに酷いこと、言われて……。」  少女は一瞬言い淀んだ。 「もうすぐお前は死ぬ。ひどく苦しむかもしれない、って。」
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