翡翠の簪(かんざし)

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 不安がないわけではなかった。与一がこんな山の中で生活しているのを上手く想像できなかったし、男は始終無言で腹に一物ある気がしてならない。それとも、ただ口下手なだけなのだろうか、と千代は思った。  しかし、それでもようやく与一のことを知っている人に出会えたのだ。千代はここ一年の間、毎日のように与一に関する情報を集めようと方々を駆け回っていた。が、これまで彼に関連する情報は欠片も得られなかったのである。  だからこそ、男の気が変わらないうちにすぐの案内を頼んだ。冷静ではなかったと千代は自覚していたが、それでも逸る気持ちが大きく勝った。もう後には引けない。  それに――と千代は思った。与一に届けたいものがあった。それは彼にどうしても届けたいものだったが、果たして上手く受け渡すことができるのか心配でもあった。  不意に男が、ここです、と言って立ち止まった。  考えごとをしていた千代は反応が遅れ、危うく男にぶつかりそうになった。  男の視線を辿るように見ると、その先には山門があった。手入れがされていないのか所々で劣化が見られ、柱には苔が張りついていた。おそらく、この寺はすでに打ち捨てられているのだろう、と千代は思った。  山門の柱の手前には仁王像が一体、低い台座の上で佇んでいる。筋骨隆々の身体に、噛みつかれそうな勢いで開けられた口、そしてその目元は閉じられていて――。まるで、いびきをかきながら眠っているかのようだった。 「これが与一さんです」  男がランプを掲げながら、その仁王像を指し示して言った。 「はあ……」  千代は間の抜けた声を出した。これは何の冗談だろうと彼女は考えた。男なりの場を和ませるための軽口だろうか。  だが、当の男は大真面目な顔をしている。  男は困惑している千代に構わず、彼女に持っていたランプを渡した。 「よく見てみてください」  千代はわけがわからないままランプを掲げて、眠っている仁王像を見上げた。ランプの明かりに照らされたその顔をまじまじと眺めてみると、なるほど、たしかに与一と似ている。  けれど、与一の年齢は現在八十代くらいであるはずだが、眼前の仁王像は二十代そこそこの年齢にしか見えない。やはり、これは冗談なのでは――。千代がそう考えたときだった。 「誰だ、おれの目の前にいるのは」
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