翡翠の簪(かんざし)

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 千代は次に何をどう言えば信じてもらえるのかを必死に考えた。こちらが持っているのは記憶のみで、形ある証拠などどこにもないのだ。かと言って、さきほどの質問よりも説得力のある出来事など容易には見つけられない。焦りで鼓動が早くなるのをはっきりと彼女は感じた。  千代は中々言葉を紡ぎ出すことができずにいた。 「おれがゆきに渡したかったものそれは……」  与一が言いながら、千代に今一度視線を向けたときだった。彼は声を切って、代わりにハッと息を呑んだ。 「その着物の(えり)を握りしめる癖」と与一は言った。「それはゆきが不安を感じているときによくする仕草――」  千代は言われてはじめて、自分が着物の衿を強く掴んでいるのに気がついた。強く握りすぎて痛いほどだった。  そのとき。  仁王像である与一の身体に亀裂が入った。亀裂は瞬く間に広がり、その身体の表面がボロボロと崩れていく。やがて、その中から一人の男が現れた。  ああ、と千代は声を漏らした。現れた男は人間の姿を取り戻した、与一本人だった。封印が解けたのだ。  与一は身体が自由になったのをおもむろに確かめている。時間をかけてたっぷりとそうしてから、彼は千代の前まで歩み寄った。その瞳はやわらかな光を宿しながら、こちらを真っ直ぐに捉えている。 「おれの目の前にいるのは、間違いなくゆきだ」  と、与一は言った。一拍置いてから、彼は続ける。 「実はずっとこれを君に渡したいと思っていた」  与一が懐から取り出し、こちらに差し出してきたのは(かんざし)だった。簪には翡翠の玉飾りがついている。  千代はそっと簪を手に取り、ランプをかざしてそれをよく見てみた。 「すごく綺麗な簪ですね」千代はうっとりとして言った。「でも、どうしてこれをわたしに?」 「夫婦になってからもおれは君に何も贈れずにいたから……。稼ぎが少なくて、手に入れるのが遅くなって、それで結局渡しそびれてしまったのだけれど」 「いいえ、与一さんはわたしが力尽きるそのときまで、ずっとそばにいてくれました。わたしはあなたから多くをすでに貰っているのですよ」  でも、と千代は言った。そっと笑みを浮かべる。「簪、確かに受け取りましたよ」  与一は晴れやかな表情で、力強く頷いた。
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