翡翠の簪(かんざし)

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与一(よいち)さんをお探しですか?」  と、酒屋で男から声をかけられた。  突然のことだったので千代(ちよ)が驚いて言葉を継げずにいると、 「あなたが近くで別の人と話しているのがきこえたので……」  男はきまり悪そうに目を逸らしながらそう言った。  千代は連日人探しをしていて、情報を集めるために酒屋を訪れていた。そして今、目の前にいる男の存在は彼女にとって僥倖(ぎょうこう)だった。 「与一さんのことを何か知っているのですか?」と千代は言った。 「ええ、知っています」 「彼は今どこにいるのでしょうか?」  男は考え込むように沈黙した。その眉間に寄った皺や引き結ばれた口元から、静かな迫力が押し寄せてくる。千代は無意識のうちに息を詰めていた。やがて、彼が口を開いた。 「説明するのが難しいので、ご案内します」  外ではすでに夜の気配が漂っていたので、男は明日案内すると言ったが、千代は今すぐに向かいたいと言った。  千代の態度が変わらないのを見て取った男は、「待っていて下さい」と言って酒屋を出ていった。ふたたび彼が戻ってきたときには、その手に石油ランプが提げられていた。  男と千代は酒屋を後にした。  男は大抵の時間無言で、黙々と先を歩いていた。 「与一さんは今、どんな風に生活しているのですか?」  何となく気まずさを感じた千代は、少し前にいる男の背に向かって尋ねてみた。  男は唸った。「どう言ったらいいのかわかりません」 「では、与一さんは元気にしているのでしょうか?」 「そうですねえ……」  男の曖昧な答えに、千代は彼に対する疑いが湧いてくるのを感じた。本当に与一のことを知っているのだろうか。  そのとき、男は千代の心の内を読み取ったかのように次の言葉を発した。 「ただ、与一さんは妻のゆきさんと死別したことを今でも悲しんでいます」  千代はそれをきいて、男への疑念を(わず)かにやわらげた。  空はすっかり夜の闇に覆われていた。男と千代は町はずれまできていた。目の前には黒々とした山がそびえている。  男は迷いのない足取りで山の中に入っていく。千代も彼に続いて歩を進める。
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