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第1節「氷の子」
それが生まれしは、今より数百の時を遡るほどの昔。
今は遠き神々が辛うじてこの世界に降臨していらっしゃった頃の事。
今でこそ水と緑に覆われし、豊かなる北方はヤーランドゥの地。
そこはかつて一面真っ白な銀世界で、他には誰もいなかった。
折り連なるは氷壁の峰。
重なる巨大な氷柱たち。
絶え間なき吹雪と侵されざる雪に守られた暗く澄んだ灰色の空。
そこにはかつて凍土大迷宮と呼ばれた自然の要塞が存在した。
何人にも侵されざる凍てついた大地。
そんな氷に閉ざされた迷宮に、それはただ1人生まれた落ちた。
創造せしは無間凍土の女王、霜の女神。
しかしてそれは女王に何某かの命も与えられず 、ただただそこに居続けた。
それとはなにか。
知る者もあろう氷の巨人。
1つの頭に顔は3つ、腕は6本。
3つの顔は全て外を向いた三角の形で付いていて、互いの顔を覗き込む事もない。
彼は言葉を知らず、それらは慰めに互いに声を交わす事も出来なかったという。
言葉に似たものと言えばゴウゴウと重々しい雪崩の如き吐息と唸り声。
それすらも、同じように発する者は他にない。
銀世界にただ1人。
何十、何百年も、彼はただただぼんやりと、白の世界を眺めて過ごした。
そうして幾つの昼と夜とが巡ったか。
彼の心臓は次第にギシギシと軋みだし、ヒュウヒュウと冷たい北風に吹き曝される様になった。
これが孤独というものなのだと言う事を、彼はまだ知らない。
しかし胸を苛む苦痛は幾らその大きな手で撫でさすっても消えはしない。
彼は己の心臓を紛らわせる為に、手近にある雪で彼と似たる者を生み出した。
さながら、子供が雪人形を作るが如く。
それそこが皆も知る“イエティ”と呼ばれる雪の子供たち。
その子どもたちが動き出し、傍近くにいる様にると彼の痛みは和らいで、その目には毎日オーロラが見える様になったという。
白と灰色の世界はさながら、虹のようであった。
けれども、作った子らも大きくなり仲間を次々生み出すうち、次第に彼から離れ、仲間だけで山を降りていってしまった。
子らが去ると彼の心臓はまたギシギシと音を立て、ヒュウヒュウと北風に苛まれた。
そうして彼は再び長い時を一人きりて過ごたのだ。
そんなある日。
雪の子どもたちとは違う子供たちがやって来た。
これらは彼とは違うけれど、手も足も顔もあって、似た様な姿をしていた。
初めて見るその子供たちは、彼の脛丈までの背しかなく、とても小さかった。
手にはキラキラとした氷柱に似た棒を持っていて、大声で何か言っている。
彼らこそが最初の勇士である。
彼らは言った。
『これが、イエティどもの王か』
『なんと大きく、禍々しい』
『霜の巨人め、我らが退治してくれる』
『吹雪に閉ざされた世界を、我ら人の手で解放するのだ』
霜の巨人と呼ばれし氷の子はふと考えた。
己には理解出来ないが、この子どもらは何かに怒ってるようだと。
彼は言った。
『ごめんね』
『なんて言ってるのか分からないんだ』
『ボクは同じ声で話せないから』
ゴオオオオオッ
雷鳴の如く咆哮がこだました。
無垢なる巨人の咆哮だ。
子供らが大声を出しているから、聞こえる様に謝ろうと思ったことに由来する、彼の声そのものだった。
『悪い事したのなら、ごめんなさい』
『記憶にはないけど、ごめんなさい』
『初めて会ったはずだけど、何処かで会った事があるのかな 』
彼は興味を持って、小さき子らの顔を良く見ようと近付いた。
近くで見ればその子らが誰なのか分かるかもしれないと。
また初めて見る動く生き物だったが故に、彼こうも思った。
触れてみたい。
ここには何も無いから、己以外の生き物がどんなものなのか気になった。
冷たいのか。
もっと冷たいのか。
触れてみたくて手を伸ばす。
すると
『来るぞ』
『殺せ』
子供たちはそう言って、キラキラとした棒を突き出した。
剣である。
剣は勇士の声に応え、赤銅の輝きを携えると燃えあがる。
炎の神に授かりし力ある宝剣。
火の勇者の剣である。
切っ先が刺さると、まるで氷柱が刺さったかのように激しい痛みが彼を襲った。
白い身体にひび割れが出来、傷を押し開くように炎が舞い上がる。
巨人は悲鳴をあげ泣いた。
痛い、 熱い、やめてくれと。
けど言葉が異なるその子らには伝わらない。
だから逃げた。
腕を振り払って逃げる時、何人か壊れて飛んでいった。
逃げても逃げても、小さな子らは彼を追い回しーーやがて
彼は氷の大峡谷で首を刎ねられた。
三面の首はゴロゴロと渓谷の坂を転がり、雪原の只中で止まった。
命尽きるの時、彼が最期に見たのは彼を見下ろす子らの目だった。
巨人は生まれて初めて恐怖を知った。
皆氷よりも冷たくて、とてもとても恐ろしかった。
巨人に勝ったと喜び笑い合う姿も、彼の心に悲しみの水を注いだ。
注がれた水は涙となって、巨人の目から溢れたという。
徐々に目の前が暗くなる。
身体から全ての痛みが消え、溶けていくのも怖かった。
そこで彼はふと思い出す。
そういえば、ずっと昔。
身体を持って生まれる前。
魂だけの彼に、さる神が言った事を思い出したのだ。
この世界はやがて、人間のものになるのだと。
だから神々は、この世界から出て行く事にしたのだと。
人間。
これが人間なのだろうか。
これほど怖くて冷たくて、恐ろしい生き物が人間なのだろうか。
新しい世界には、こうした人間が山といて、彼のような古き生き物を殺して回るのかも知れない。
ならば、ここで死んだ方がずっといいのかもしれない。
苦しいのも、怖いのもおしまい。
心臓の痛みももなくなる。
それでいいのかも知れない。
嗚呼、哀しきかな、氷の子。
故にこの子の末期の言葉をここに歌おう。
ああ、でも
でもね 神様
もし叶うのならば
次はこんな風に独りは嫌だな
出来れば誰かと一緒にいて
優しい目を見て死にたいな
優しい他人
それを神様は何とかって呼んでいた
ああ、なんだっけ
思い出せないな
もうここまで出かかってるのに
静々と溶けていく身体。
薄れていく意識の中、彼は最後の最期でやっと思い出した。
そうだ、確か
「トモダチ」
思い出せた事に満足し、彼は溶けて消え失せた。
後に骸はなく、ただの大きな水溜まりが残るのみ。
氷の巨人は、そうして死んだ。
生まれてから数百年。
北方の山々を占拠せし凍土大迷宮唯一の主。
雪の巨人イエティたちの王、霜の巨人は勇者たちの手によって首を刎ねられ絶命した。
氷の子を滅ぼした勇士らは後に“火の勇者”と呼ばれ、長く人々の尊敬を集め愛されたと言う。
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「これが、“氷の子”の物語」
ポロンと竪琴が囁いた。
「皆様が良く知る、ありふれた…“氷の巨人と火の勇者”の物語。その別の側面です」
静かに語り追えると吟遊詩人は竪琴を抱え直し、瞑目する様に呟いた。
酒場にはしんとした静寂が落ちた。
誰もなにも語らない。
どさり
どこかで屋根の雪が滑り落ちる音がした。
その音は今の話を聞いたからか、旅人には氷の子の首が落ちる音のように聞こえた。
いつの間にか、幾人かが啜り泣いていた。
旅人もまた痛ましい思いで俯いた。
ポロンと再び竪琴が鳴った。
まるで誰かを慰めるかのように。
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