第3節「天使が与えたもう愛」

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第3節「天使が与えたもう愛」

これは遠い昔。 人と神がまだ完全に離れてしまう前の、遠い遠い昔の物語。 かつて天上には大層美しい天使がおりました。 この世で最初の、最も美しい暮れ日と共に生まれた天使。 名は無く、ただ“夕映え”と呼ばれておりました。 皆様はご存知か。 彼こそ愛と美の女神・ディアネ神が生み出せし“百の天使”の一翼(ひとつばさ)。 今でこそ“拷問の天使”などと物騒な名で知られておりますが、元は天上にて“懺悔”を司る司法の大官にして慈悲深い天使でありました。 皆様の中にもご存知の方もおられましょうが、位の高い天使の中で地上に度々姿を見せるのは、かの“夕映え”くらいでありました。 それほどに彼は人という種を愛しておりました。 ある日の事。 “夕映え”はいつもの様に地上に降りました。 この頃地上では戦火が広がり、人々は恐怖と苦しみの中にありました。 彼が降り立ったのは戦火逆巻く、さる小国。 そこで彼は1人の少年に出会います。 少年は飢えに苦しみ、その体はがりがりで、今にも息絶えそうな姿でありました。 慈悲深き“夕映え”は少年をその腕に抱き、自らの血と肉を与えました。 ご存知でしょうか、天の血肉はパンであり水である事を。 少年は息を吹き返し、“夕映え”に深く感謝しました。 “夕映え”はその暮日(くれひ)の如き温かみのある麗しき(かんばせ)に憂いを湛え、少年の感謝に痛みを覚えた様子で呟きます。 人の子よ。 何故、人は如此(かくのごとく)争うのか。 犠牲になるのはいつもお前のような弱き者ばかりだと。 少年は答えます。 分からないと。 ただ1つ分かるのは、今の世は誰も他人を気にしない。 自分たちが生きるのに精一杯で、誰も他者に心を割く余裕がない。 それは自分たちの王様が、自分たちを生き物として見ていないからだ。 “夕映え”は尋ねます。 それはどういう事かと。 天上に(いま)し、尊き天使の身であれば地上の理など知るはずもありません。 すると少年は答えました。 王様は自分たちのような子供を集めて戦争に使っているのだと。 少年の兄たちは全員無理矢理戦争に連れていかれ、母替わりだったただ一人の姉も連れて行かれてしまった。 不気味な硝子の檻に入れられて、馬車で遠くに連れていかれてしまった。 少年も硝子の檻に入れられて連れて行かれそうになったのだが、どこからともなく現れた黒い騎士が少年たちの詰め込まれた馬車を襲い、命からがら逃げ出して今に至る。 “夕映え”は胸に棘が刺さるのを感じました。 ああ、何故この様なことになったのか。 かつての地上は楽園であったというのに。 強き者の欲望の為に、弱き者が犠牲になる。 何故それを、偉大なる主はお許しになるのか。 不敬と咎められようとも、そう思わずにはいられなかったのでしょう。 “夕映え”は言いました。 少年よ、生きなさい。 どんな事があっても生き抜きなさい。 そして伝えるのだ。 人の欲望の愚かさを。 お前が生きて、見てきた事、体験した事を後世に伝えなさい。それこそが、人の過ちを本当の意味で正す事になるだろうと。 言い置くと“夕映え”は天に向かって飛び去りました。 そして天に戻った“夕映え”は母たる愛と美の女神・ディアネ神の宮殿に向かいました。 世界のありとあらゆる宝石と、至高の調度品が所狭しと集められた天界で最も豪奢にして優美なる宮殿“美しき月の宮(イル・オル・ド・セレーニア)”。 千の宝石に彩られた玉座に女神は坐す。 その御前に伏して“夕映え”は、はらはらと涙を流しました。 母たる女神は愛し子の涙に痛ましげに面を崩しました。 『ああ、私しの愛しい子。美しき“夕映え”。一体どうしたと言うのです、その様に涙を流すなど。さあ、涙を拭いて。そなたの心に澱を落とすものは一体何なのか。この母に話してごらんなさい』 愛を湛えた麗しく女神は玉座から駆け下りると最愛の天使を繊手に抱き問い掛けます。 “夕映え”は母の胸に縋り言いました。 『天上の慈愛そのものにして、心優しき愛と美の女神、そして我が母なる御方(おんかた)にお願い申しあげたき儀が御座います。どうか地上をお救い下さい』 “夕映え”は訴えます。 地上では今まさに無垢なる命たちが失われている。 それが己には耐えられないのだと。 何故誰も罪を裁かないのか。 『命を奪うこと、他の尊厳を踏みにじる事は偉大なる全ての父が禁じたというのに、人間たちは言う事をきかず、無辜の民が日々死んでおります。我が母、我が女神よ、どうかどうか、偉大なる御方にご嘆願ください。せめて、せめて哀れなる幼子たちにだけでも御身のご加護をと!』 愛しい天使の訴えに尊き女神は頷くと、主なるラディウス神に子供らの魂に安やぎをと願ったそうです。 ーーーーーーーーーーーー 「故に。以降、幼子の魂は全て天上に召し上げられ、愛らしい小天使として天の園で幸せに暮らす事が約束されたのです」 ライレーリオンが物語を終えると、酒場からは愛の女神に対する賛美と偉大なる主への感謝が万雷の拍手となって示された。
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