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間奏:「別の時代、別の場所では」
「…と、いう話があった…と」
パタンと本を閉じると金味のあるプラチナの髪を長く伸ばした女魔術師は無表情で、氷の如き青い瞳を胡乱げに眇めた。
「…グラニテ、泣くの…?」
「ああー、その話か」
召喚者の女魔術師が壮絶なまで巨大な疑惑の眼差しを向けると、ソファで横になって寛いでいた男はとろりとした色合いの瞳を細め、苦笑混じりに肩を竦めた。
「その話しはね、幾つかの話が混じって伝わったものなんだよ」
「幾つかの、話…?」
女魔術師は首を傾げる。
男は天の御使いと呼ばれる種だった。
今でこそ従霊という召喚獣としてこの女魔術師に使役されてはいるが、紛れも無い天使である。
彼は彼女の問いに答えるように、夕陽を溶かしたかの様な温かみのある瞳に不似合いな色香を漂わせながら、軽く伸びをして身を起こすと彼女に向き合うようにして座り直した。
彼は人差し指をすっと立て、講義でもするかの様に告げる。
「そう。まず、マスターも知っての通り、オレはそれ位の事では泣けないかな。いや、それ位の事ではないか、実に痛ましい事柄だ。けれど、オレならその状況下でも涙を流したりはしないだろう。持っていないものを流す事は出来ないからね」
天使がそういうと女魔術師は意外そうに首を傾げた。
「…涙を、持たない…?」
初めて聞く内容だったからだろう。
その様子に彼は小さく頷いた。
「残念ながらね」
そういう風に創られなかった、と彼は言った。
女魔術師は僅かに考えると、天使は皆泣かないのか?と問いを重ねた。が、それに対し彼はいいや、と首を振った。
「天使の中には涙を流す事が出来る者もいるよ」
「ふぅん…」
「と言うか、大半の天使は血も涙も持っているよ。オレだけが特例だったと言うべきかな?だから、この物語に出て来る“夕映え”は、キミの知る“夕映えの天使”当人じゃない」
「じゃあ、誰…?」
「それはマスターも知っているだろう?彼女だよ」
「彼女…」
「そう、彼女。我らが姉とも言うべき先の天使、かの“献身”だ」
「…コンフィ…?」
「ああ」
この女魔術師は更にもう1人、天使を使役している。稚い童女の姿をした愛らしい天使だ。
名をコンフィチュールと言う。
彼女は“献身”を司る存在で、女魔術師が知る限り他の誰よりも優しく慈悲深い。
愛と美の女神ディアネが生み出した“百の天使”の内の一翼と言われているが、あの少女天使がこの男の姉に当たる存在だと言われると、頭では理解していても違和感を感じる。
無論、彼らの今の姿形がこの世に生を受けた時のままかと言われたら違うのだろうから、姉でも可笑しくはないのだが。
「いや…」
そこで女魔術師は脳裏に1つの結論を導きだした。
日常生活から鑑みるに、コンフィチュールとこのグラニテとでは仕事に対する真剣度がまるで違う。
コンフィチュールは非常に真面目で熱心だ。
いつも彼女に良く従い尽くしてくれる。
一方でこのグラニテは対比するかの如く不真面目で自堕落でうざたらしい。
その事でコンフィチュールに叱られる場面も幾度か見た事がある。
叱られるとグラニテは一応、ゆるゆると襟を正してはいた。
まあ、あくまでも一時的。
見た目だけは、ではあるが。
とはいえ。
この不真面目天使に、彼の主人でもない存在が言う事を聞かせるのは非常に骨が折れる。
となるとやはり、彼女は彼にとっては逆らう事の出来ない存在ーー姉に等しい存在なのだろう。
「マスター、気の所為かな。今、オレの事を非常に不真面目な下僕だと思ってやしないかい?」
「うん、納得した…」
「いや、質問に対する回答になってない気がするんだが」
「…答える必要性を、認めない。会話、拒否する…」
「そうかい、それは悲しいな」
態とらしく溜息をつく天使を放置すると、彼は彼女のツレない態度には慣れっ子のようで先を続けた。
そう言う事だから、かの物語に描かれた心優しき天使は“献身”の事だろうと。
彼女は“夕映え”ほど頻繁に地上へは降りて来なかったから、彼女の関与した奇跡の一部が時を経るうちに、地上に度々現れた“夕映え”の手柄へとすり替わってしまったのだろうと言うのが彼の見解だ。
それにもう1つ。
この伝承に、もし本物の“夕映え”が関わっていたとしたら、その内容は大きく変わっていただろうとも語った。
どう言う事かと尋ねると彼は言った。
もしその場に本当に“夕映え”がいたのなら、まず間違いなく罪人も同時に導いたはずだと。
「罪人…」
「ああ。無垢なる幼子は翼を以てして安息与え給う慈悲深き主の御下へと導き、罪人には己が罪を悔い改めるまで、主の愛に従い熱心に懺悔を促しただろう」
「つまり…張り切って、しばき倒した…?」
「マスター、言い方」
「変えても事実は、変わらない…この、変態天使…」
「やれやれ、酷い言われようだな」
グラニテは苦笑混じりに肩を竦め、やれやれと大仰な仕草で両手を広げた。
「しかし申し訳ないがね、マスター?キミがどう思おうと、オレにとって“拷問”は哀れなる罪人を人として正しい道…“懺悔”へと導く為の手段…“愛”なんだ」
「愛…」
「そう、愛だ。愛こそ我らが偉大なる主が定め給う万物不変の真理であり、麗しき愛女神、我が母なる御方が小さき人に与え給う慈悲の形の1つなんだよ。少なくとも、オレはそう創られた」
「…そう…」
彼女は否定する事もなく、こくりと頷いた。
彼は人間ではない。ならばそれが彼のーー原典の時代に創られた存在の考え方なのだろう。
「うん…良かった…」
それを知って女魔術師ーーグラニテたちの召喚主であるフィーネルチア・アンネリス・ド・ベネトロッサは胸に砂粒ほどの安堵を抱いた。
「良かった?」
今度はグラニテが首を傾げる。すると
「…間違われたの、コンフィで。…もしグラニテなら、発禁本になってた…」
「酷いなぁ」
「事実…」
「オレはこんなに真面目で従順な愛の下僕だと言うのに」
グラニテはそう言ってくすりと笑うと己の今の主人に擦り寄った。
逞しい腕を伸ばし、か細い魔術師の腰を抱き引き寄せる。すると彼女は微動だにしない顔はそのままに、声音に相手を切り刻む程の不快感を滲ませて
「黙れ、この変態…あと、寄るな。近い…」
ごすりとテーブルの上にあった巨大な灰皿ーー尤も、彼女は煙草をやらない。これはあくまでも彼専用に用意したものだ。その用途は本来のものと大幅に違うがーーで、ふしだらな天使の脳天を遠慮なく殴った。
「いった!?」
「……死ね」
痛みに頭を抱える天使を睥睨すると、彼女は挨拶代わりの暴言を吐き、さっさと部屋を出て研究室へと戻ってしまう。
彼女によりグラニテと名付けられた“夕映えの天使”は暫しの間、痛みに悶えていたのだが、その口元は非常に嬉しげで、楽しげだった。
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